第2章
九条和也はまだ足場が固まっていない。出費もきっちり管理されていて、少しでも派手に使えば母親の電話が飛んでくる。疑り深い声で、決まってこうだ。
「また天城澪に無駄遣いしてるんじゃないでしょうね」
「……なんでうちの母親、あんなに澪を見下すんだよ」
「今さら何言ってんすか」皆木恒弘は声を落とし、天井を指で示した。「坊ちゃん、よく考えてくださいよ。親父さんは実務家、母上は教育者。で、叔父上は――」
「表には出ないけど、繋がりが桁違いっす。誰だって叔父上の前じゃ頭下げる。来年『仲間に入れてもらえない』のが怖いから」
「俺らみたいな家は、結婚だって釣り合いが命っすよ。権力と金の夫婦がいちばん体裁いい。なのに坊ちゃんは反骨。九条里奈が許すわけないじゃないすか」
皆木恒弘は寒気でもしたのか、腕をさすってから続けた。
「長男のとき見たでしょ。昔、あの女に惚れ抜いて家を出るって騒いだ。九条里奈は容赦なかったっすよ。あんな強い人でも、最後はきっちり躾けられた」
「上に兄貴がいて、その上に叔父がいる。兄貴は実の兄じゃないし、叔父上は情け容赦なし。坊ちゃんが叔父上より強くならない限り、九条グループの社長なんて一生ムリっす」
「でも……澪さんは叔父上に命の恩がある。坊ちゃんが澪さんと一緒にいれば、叔父上も顔を立ててくれる。見捨てはしないっすよ」
また九条裕也。
九条和也の胸の奥に、言葉にならない鬱屈が溜まっていく。
母親以外の友人は皆、同じことを言う。
天城澪と一緒にいれば、叔父が最後には自分を九条グループ社長に押し上げる、と。
長男は実兄ではない。同じ父を持つ、腹違いの兄弟だ。
――じゃあ、天城澪がいなければ、俺は九条グループで何者でもないのか。
九条和也は「ヒモ」扱いがいちばん嫌いだ。
だが心のどこかで理解している。
九条グループで重く見られているのは、確かに天城澪が絡んでいる。
彼は澪を愛している。
他の女と場のノリで遊ぶことがあっても、最後に結婚するのは彼女だとわかっている。
理由は二つ。
一つ、長年の情。
二つ、あの誘拐事件は自分のせいもある。責任を取らなければならない。
三つ目は――ない。
九条和也は煙草に火をつけ直した。
男は勝手だ。
外で女が増えても、家の本命は手放さない。しかも本当に浮気したわけじゃない。最後の一線は越えていない。
遊びだ。外の女を本気にするほうがどうかしている。
それに――あの誘拐のとき、何があったかなんて、誰にもわからない。
だから、ここ数年ずっと澪に手を出せなかった。
可哀想だと思う。愛している。けれど……汚い、とも思ってしまう。
「先に個室入るか」と言いかけたとき、スマホが鳴った。
表示された名前に眉をひそめる。苛立ちが先に立つのに、声は反射的に低くなる。どこか、媚びにも似た調子まで混ざる。
「……もしもし、叔父さん? どうした」
九条裕也の声は平坦だった。短く、それだけ。
「どこだ」
九条和也は妙だと思いながらも、叔父への本能的な恐怖に逆らえず、すぐ場所を告げた。
言い終える前に通話が切れる。
「……何の電話っすか」皆木恒弘が、歯を痛めるような顔で言った。九条裕也の噂は、彼も知っている。
九条和也も首をひねる。胸の奥の嫌な予感を、無理やり押し込めた。
「さあな。……いい、気にすんな。小野詩織がもう着く。先に入って準備しよう」
――
「平江ホテル。行くか」
九条裕也の声は低く、ざらりと心を擦るようだった。
密閉された後部座席。スーツ姿の彼は、身長が一九〇近いせいで、広いはずの車内をさらに狭く感じさせる。圧がある。
膝の上で組まれた指は長く、整っている。
手首には磨き上げられた数珠。細い黒い房が揺れ、淡い冷たい檀香が漂う。
その香りが、天城澪の周りをじわじわと覆い尽くしていく。
逃げ場がない。
澪は緊張して彼を見た。
「……い、行きます」
結局、彼女が九条裕也に抱く感情は、恐れより敬意のほうが大きい。
九条和也の叔父が、九条家の“本当の権力者”だと知らない者はいない。
和也でさえ、彼の顔色をうかがう。
気まぐれで、容赦がなく、やりたいようにやる男。
――こんなに直接頼んだのは、やっぱりまずかったかもしれない。
「病院には誰か付けたか」
澪は慌てて頷く。
「護工さんをお願いしました」
「叔父さん、ありがとうございます。和也の場所を教えてもらえただけで十分です。あとはタクシーで――」
「お前のことは“面倒”じゃない」
車のドアに伸ばしかけた手が止まった。
その言い方は、どこか曖昧で、境界を越えている気がした。
「……やっぱり自分で――」
檀香が袖口に移る。
次の瞬間、腕が横から伸び、軽々とシートベルトを引き下ろした。
カチリ。
距離が近すぎる。
耳元をかすめた熱が、ぞくりと背筋を震わせた。
「座れ」
男はいつも通りの声で命じた。
漆黒の瞳は冷たく深い。無造作な一瞥だけで、逆らえない。
澪は動けなくなり、両手を膝の上で重ね、息まで浅くした。
ふいに、九条裕也が言う。
「九条和也はお前に飯も食わせてないのか」
黒い瞳に射抜かれ、澪は言葉を失った。
「……い、いえ。そんなこと……」
小さく舌打ちが聞こえた気がした。はっきりしないが。
「痩せすぎだ」
「ちゃんと食え。節食だの減量だの、真似するな」
叱責めいた声に、澪はなぜか悔しくなる。
最近は働き詰めで体が弱り、食べても太れないだけなのに。
九条和也の家族は皆、自分を嫌っている。
九条裕也も同じだと、勝手に括っていた。
「ちゃんと食べてます」小さく反論する。「肉食べても太らない体質なんです」
九条裕也が一瞥する。
細い腕、細い脚。風が吹けば飛ばされそうだ。
視線を戻し、淡々と言った。
「それは食い方が悪い。後で補いを送る。拒むな」
……それに、その服は何だ。
九条家は破産でもしたのか。九条和也は、彼女にまともな服一枚買えないのか。
だが買って彼女が着るのも、九条裕也は気に入らない。
「九条和也とは最近どうだ」
澪は意図が読めない。
けれど雑談のような口調に、少しだけ肩の力が抜けた。
「……まあ、普通です」
九条裕也は平然と結論を下す。
「つまり、良くない」
返しようがなく、澪は聞こえないふりをした。
三年前の件以来、二人が会うのは初めてだ。
甥の恋人だからといって、ここまで気にかける必要があるのだろうか。
それに、九条和也に会えば、場は荒れるに決まっている。
「私、やっぱりタクシーで――」
「俺が怖いか」
九条裕也が見下ろす。淡い表情。
図星を刺され、澪はさらに緊張した。
「……怖くないです」
九条裕也の指が数珠を回す動きが、ふっと止まった。
口元に、かすかな弧が浮かぶ。
だが目は冷たい。
怖がられている。
不慣れだからだ。
慣れれば、怖くなくなる。
「平江ホテルへ」
運転手に命じる。
彼は彼女をこれ以上緊張させないためか、目を閉じて後部座席に身を預けた。
――そのせいで、澪は逆に緊張した。
手足の置き場がわからない。
車は驚くほど滑らかで、坂道でも揺れない。
それでも彼女は息を潜め、九条裕也の眠りを邪魔しないよう呼吸まで浅くした。
