紹介
チャプター 1
バスを降りた瞬間、天城澪はちょうど、恋人が小野詩織を連れて自分のハマーに乗り込むところを目撃した。
白くて清潔感のある肌。澄んだ瞳に整った歯並び。丸子頭で、世間知らずの学生みたいな雰囲気。新しく入った秘書だと聞いている。
その光景は、目に刺さった。
――彼は、何度も私の前で愚痴っていたはずだ。
小野詩織は不器用で、忘れっぽくて、手がかかる、と。
けれど本人は気づいていない。
彼がその子の話をする回数が増えていることに。
そしてそのたび、目尻がやわらかく落ちることに。
向こうで、九条和也が何か言ったらしい。小野詩織がぱっと花が咲いたように笑った。
空気がいい。
……外の人間が絶対に入り込めない、あの空気が、いちばん痛い。
天城澪は、九条和也がその子の肩を抱き、車を走らせていくのをただ見送った。
そのとき、スマホに通知が入る。
医療費の支払いのリマインド。
我に返り、深呼吸して病院へ入った。カードを通し、手続きは流れるように終わる――はずだった。
残高不足。
「きゃっ……また鼻血ですよ」
隣の看護師が声を上げる。
最近の澪にとって、鼻血なんて日常茶飯事だ。彼女は看護師をなだめながら、祖母の病室へ向かった。
回診に来た先崎先生が彼女を見つけ、思わず言った。
「鼻血? 前回の検査で血小板が低いって出てたろ。このまま進めば白血病になるぞ! 栄養を取れ、無理をするな、掛け持ちのバイトはやめろ!」
続けて、声を落とす。
「天城さん。自分のことを考えないなら、天城清美さんのことを考えなさい。君が倒れたら、あの人に希望はない」
祖母の名が出た途端、澪の顔色がさっと青ざめた。
「……祖母は、どうですか?」
「手術をしないで保存療法なら……もって二か月だ」
視界がぐらりと揺れた。立っていられず、膝が折れかける。
先崎輝道が支えた。彼女の襟元に、洗い落としきれない血の跡が見えて眉をひそめる。
「栄養剤を出す。数日見ないうちに、どれだけ痩せたと思ってる」
病院の薬は高い。
澪は首を振った。お金は祖母の治療のために取っておかなければならない。
「あとでネットでビタミンBでも買います」いつものように話題をそらし、冗談めかして笑う。「それに、まだ若いし。数日ちゃんと休めば平気かも」
先崎輝道は黙った。
迷った末、言う。
「君の彼氏は九条グループの九条和也だ。頼めば助けてくれる」
澪は固まって、苦い笑みを浮かべた。
「……そのうち、考えます」
九条和也に借金を頼むことは、考えたことがある。
けれど九条里奈が、裏で彼女に釘を刺していた。
九条和也に何の利益ももたらさない孤児が、夢を見るな。
九条和也から一銭でも引き出そうとするなら――本人には手を出せなくても、天城清美を早く逝かせる手段はいくらでもある、と。
病室は静かだった。祖母は眠っている。
最近は、目を覚ましている時間がどんどん短くなっていた。
調子がいいときだけ、祖母は彼女を認める。
骨ばった、ひび割れてざらついた手で、何度も何度も、澪の掌を撫でる。
「澪の花嫁姿、見られないねぇ。ひ孫の面倒も見られない」
「ずっと一緒にいたかったよ。結婚して、子ども産んで、幸せになるのを見届けられたら、もう悔いはないのにねぇ」
付き添いの介護士が、枕の下から途中まで縫われた虎頭の布靴を取り出した。
「天城さん。これ、おばあさまが意識のあるときに縫っていたんです。『出産は見られないけど、結婚する前にお祝いだけは渡したい』って」
堪えていた涙が、ついに落ちた。
澪はその小さな靴を抱え、声を上げて泣いた。
祖母に一日だって楽をさせてあげられなかった。
それでも――最期まで悔いを残したまま逝かせるわけにはいかない。
スマホを取り出し、九条和也に電話をかける。ずっと話し中。
SMSも、LINEも、返事はない。
九条和也が本気で無視するなら、彼女には彼を探す術がない。
けれど、連絡がつく人が一人いる。
九条和也の叔父、九条裕也。
かつて偶然、彼を助けたことがある。
深呼吸して番号を押した。
「もしもし、叔父さま。天城澪です。お願いがあります。和也と私が結婚できるよう、間に入っていただけませんか」
返事がない。
長い沈黙のあと、受話器の向こうで、くすりと笑う気配がした。
心臓が跳ねる。
数年ぶりの九条裕也の声は、以前より低く、艶が増していた。
耳に入るだけで、頬が熱くなるような――そんな声。
「五年前は『別れないように口を出してくれ』。五年後は『証人になってくれ』か」
「この数年、俺の言葉をひとつも聞いてないな」
「俺の甥のそばには、もうとっくに“いい人”がいるはずだ。三人目がいるとわかっていて結婚する。……何が目的だ?」
淡い嘲りが混じった口調に、澪は喉が詰まった。
「叔父さま……祖母が、もう長くないんです。最期の願いが、私の結婚を見ることなんです。逝く前に、安心させてあげたい」
孤児だからこそ、彼女は家族というものを誰より重く抱えている。
声を殺して泣いた。
しばらくして、九条裕也の声が戻ってくる。今度は、からかいが消えていた。
「泣くな」
よく聞けば、少しだけ――困ったような気配。
「どこにいる。秘書を今すぐ向かわせる」
……
最近の九条和也は苛立っていた。
天城澪からの十数件の着信を見て、二人が長いこと腰を据えて話していないことはわかっている。
問題がどこにあるかも。
家族の理解のなさ。周囲の否定。二人の間に広がる亀裂。
だが、いちばん大きい理由は――。
三年前の誘拐事件。
九条和也より先に、九条裕也が天城澪を見つけた。
あの瞬間、自分の無力さをどれほど憎んだか、誰も知らない。
九条裕也の前では、いつだって押さえつけられる。
男としての自尊心が、踏みにじられ続けてきた。
九条家が別れろと言えば、母の強引さを変えられない。
だが九条裕也が出れば、あっさり決まる。
澪を見るたび思い出す。
御霊舎で跪かされ、皮が裂けるほど叩かれてでも関係を守ろうとした自分より、彼女が“恩”を持ち出して九条裕也に頼んだ一言のほうが効いたことを。
「小野詩織のこと考えてた?」皆木恒弘が近づき、煙草に火をつけた。
九条和也はうんざりした顔をする。
「適当言うな。俺と詩織は普通の上司と部下だ」
「上司と部下?」皆木恒弘が鼻で笑う。「それ、俺には通じても自分には通じねえぞ」
九条和也の苛立ちが跳ね上がる。
「……どういう意味だ」
皆木恒弘は話を逸らすように言った。
「澪はいい子だ。裏切るなよ」
「言われなくてもわかってる」九条和也は煙草を踏み消した。
彼だってわかっている。
天城澪を裏切ってはいけない。
二人は苦楽を共にし、互いが初恋だった。
同じ孤児院で寄り添って育ち、成長してからは家の反対や妨害にぶつかりながらも、何とかここまで来た。
澪が結婚したがっていることも知っている。
女の青春なんて、そう長くはない。
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妊娠を隠して離婚します
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雅人は冷酷に鼻で笑った。
「離婚してからどれほど経った? それでもう俺の『ルール』を忘れたか。お前の身体は、今でも俺をこんなによく覚えているくせに。……ほら、咥えろ」
熱を帯び、恐ろしいほどに猛り狂った彼の太いものが、絢香の顔を容赦なく叩いた。
雅人は冷たく笑う。
「俺から離れられるなんて夢にも思うな、絢香。お前は俺だけのものだ」
——
3年間の契約結婚の間、霧島絢香は「雅人が冷徹な人間だから、その心を溶かすことができないのだ」と思い込んでいた。
しかし、彼が桜井陽菜の妊婦健診に付き添い、彼女が少しでも不快な思いをしないよう、見たこともないほどの優しさと甘やかし方で接している姿を目撃したとき、絢香はついに悟った。彼は人を愛せないのではない。ただ、自分を愛していなかっただけなのだと。
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だが、絢香が完全に姿を消した瞬間、雅人は狂わんばかりになり、街中を血眼になって彼女を捜し回った。
ついに再会を果たしたとき、雅人の瞳は血走り、その声は掠れていた。
「絢香、俺が悪かった……頼む、俺の元に戻ってきてくれ」













