第3章
天城澪は、余計なことを言って墓穴を掘るのが怖くて、口を開けなかった。
けれど運転手だけは知っている。九条社長は――機嫌が悪い。
はぁ……九条社長が、甥を二人とも見下しているのも無理はない。
九条家の長男がどんな代物かはさておき、連れ戻した次男もまた、どうしようもない。
年明け前にやらかした案件の尻拭いに、両親が恥を忍んで九条裕也に頭を下げに来た。いまの九条家は、九条裕也の稼ぎで食っていると言っても過言じゃない。
九条裕也が九条和也を叱る気になれば、言葉すらいらない。九条家のほうで勝手に縛って連れて来るだろう。
「……ありがとうございました、叔父さま」
降りる前、天城澪は礼を言った。
九条裕也は温度の読めない顔のまま、短く頷いただけ。彼女がホテルへ急ぐ背中を、静かに見送る。
「九条社長、このまま戻りますか」
「……もう少し待て」
運転手に命じ、車を少し離れた場所へ停めさせる。
天城澪が一人で出てくるなら、送ってやれる。
九条和也と一緒なら――。
九条裕也の眉目に、濃い陰りが落ちた。
あのとき、あと少し早く見つけていれば。
どうして九条和也みたいな無能に、先を越される。
運命は一度、彼に味方した。二年前、彼女を救えた。
だがそのあと、彼女はむしろ彼を避けるようになった。
それでもいい。
彼には、待つだけの忍耐がある。彼女が釣れるまで。
天城澪が左側のエレベーターに乗り込んだのと同時に、小野詩織が右側のエレベーターへ入った。
同じ階へ上がり、前後して降りた二人は、別々の場所へ向かう。
天城澪は九条裕也に教えられた部屋番号を心の中で繰り返す。
廊下は針が落ちても聞こえそうなほど静かで、一瞬、九条和也が本当にここにいるのか疑った。
だが、3502の前で足を止め、わざと少し開けられていたドアを押すと――
ドンッ!
巨大なクラッカーの音が耳を打ち、紙吹雪が雨のように降りかかった。
熱気が一気に押し寄せる。
九条和也も、周囲に囲まれながら笑っていた。大きな花束を抱え、彼女へ歩いてくる。
――こんな、熱のある笑顔。
いつ以来だろう。
天城澪は、その場で立ち尽くした。
九条和也が反射的に口にする。
「誕生日おめでとう」
そして、入口に立っているのが天城澪だと気づいた瞬間、彼は固まった。
事情を知らない連中は「付き合え!」「キス!」と騒ぎ、誰かが天城澪の背中を押して前へ出そうとする。
「盛り上がってるね。私の誕生日祝いじゃないの? 主役が来てないのに先に祝っちゃって。澪さん?」
遅れて小野詩織が到着した。
ドアの外で中の騒ぎを聞いていたのだろう。天城澪を見た途端、声が硬くなる。
隠していたものが剥がれ落ち、目の前に突きつけられる。
もう、自分を騙せない。
その空気に、周囲もようやく気づく。
主役が二人……?
「九条和也。あなた、誰と付き合うつもり?」
天城澪は、これまででいちばん冷静だった。
冷静すぎて、心が氷になり、ひびが入って、息ができない。
「澪さん、誤解だよ。今日は私の誕生日で、和也がサプライズを――」
「和也、ね。ずいぶん親しい呼び方」
その一言で、小野詩織が口を噤み、委屈そうに唇を噛む。
九条和也の顔色も悪い。
人目がある。大事にしたくないのだろう。沈んだ顔で天城澪の手を掴もうとした。
「触らないで。気持ち悪い」
胃の奥がぐるりと捻れる。
周囲の囃し立てが耳に入り込み、反射的にその手を振り払った。
「何を騒いでる」九条和也が苛立つ。「言っただろ、そういうんじゃない。説明させろよ」
騒いでる?
彼女はまだ、騒いですらいない。
それなのに九条和也は、彼女を責める。
「電話もLINEも無視して、他人の誕生日を祝ってたんだ。九条和也、私を騙すの楽しい? 誕生日を祝うのが、そんなに言い出せないこと? 私が嫉妬深い女に見える?」
畳みかける問いに、九条和也は言い返せない。
「私の誕生日、覚えてる?」
「6月24日」
即答だった。
それが、逆に天城澪をさらに惨めにした。
「覚えてるなら……最後に私の誕生日を一緒に過ごしたの、いつ?」
九条和也はさっきみたいに答えたかった。
だが口を開いて気づく。
――もう三年近く、彼はまともに彼女の誕生日を祝っていない。
天城澪は涙を落とさないよう顔を上げ、静かに言った。
「九条和也。チャンスは一回だけ。私と結婚するか、彼女を選ぶか。選んで」
「天城澪、いい加減に――」
「選んで!」
涙を溜めた視線に射抜かれ、九条和也は奥歯を噛みしめる。
「……俺は、小――」
「澪さん! 和也を追い詰めないで!」
黙っていた小野詩織が、突然涙を浮かべて割り込んだ。
「全部私が悪いの。誤解させたのも私。私を責めて。だから結婚を迫らないで。和也が私に……」
「何言ってんだ!」皆木恒弘が慌てて止める。「お前が口出すことじゃねえだろ!」
「和也に後悔してほしくないだけ……」
小野詩織は、泣きそうな顔でそう言った。
