第7章

病院。

天城澪は検査を終えたばかりだった。もともと体力がないうえに、採血も何本も取られている。足元がふらつき、誰かに支えてもらわなければ歩けないほどだ。

今の彼女に、九条和也と口論する気力はない。それでも、あいつの言葉は容赦なく胸を抉った。

何年も、あれだけの苦労を一緒に越えてきたのに。

――でも今日で、九条和也への未練は完全に断ち切れた。

天城澪は目尻の涙を拭い、何度も自分に言い聞かせる。ここで倒れたらだめ。倒れたら終わりだ。

おばあちゃんが、私を待ってる。

栄養点滴を何本か終え、少しだけ休んだあと、見張りがいない隙をついてこっそり病院を抜け出した。

医療費が高いのも問題だ。けれど、それ以上に気がかりなのは祖母だった。

もし急に容体が変わったら――。

天城澪は足早に、祖母の病室を探して歩いた。

立木宣人は九条裕也の指示で、天城澪の面倒をこれでもかというほど見ていた。なのに、ちょっと会議へ出て戻っただけで――病室は空っぽ。

「……勘弁してくれよ。俺を殺す気か」

九条裕也の、凍りつくような視線を思い浮かべただけで背筋が寒くなる。それでも立木宣人は震える手で電話をかけ、慌てて報告した。

「俺、ほんとに十分だけ席を外しただけなんだって……もしもし?!」

通話は、すでに切れていた。

黒くなった画面を見つめながら、立木宣人は改めて思う。

九条裕也が天城澪を気にかける度合いは、想像の範囲を軽々と超えている。

……

病室の外。

九条裕也が冷えた顔で立ち、ドアの小窓越しに中を見ていた。

天城澪が泣いている。

ただでさえ細い体が、泣くたび小刻みに震える。見ているだけで苦しくなるほど、つらそうだった。

九条和也が、また彼女を傷つけたのか。

九条裕也は扉を開けて入る。

「天城澪」

低い声に、天城澪が振り返った。相手を認めた瞬間、肩がきゅっと強張る。

「……叔父さん?」

どうしてここに。

「どうして言うことを聞かない」

九条裕也は彼女の前まで来て、見下ろした。

泣き腫らした目。頬に残る涙の跡。

胸の奥がざわつく。拭ってやりたい。――口づけたい。

だが、抑え込む。

喉仏が小さく上下し、視線がわずかに逸れた。

「私……」

金がない。病院にいる時間もない。

それを、元恋人の叔父にどう説明すればいいのか。

天城澪は体の横で拳を握りしめた。

「もう治りました」どこか後ろめたく、そう口にする

九条裕也の口元がわずかに上がった。

「治った?」

不機嫌な視線が、彼女の細い体をなぞる。

天城澪の背筋がひやりとする。理由もなく危険を感じ、反射的に二歩下がった。背中が冷たい壁に当たる。

「叔父さん……」

言葉を探すより先に、九条裕也が詰めてくる。

たった一歩。

それだけで、壁と彼の腕の間に閉じ込められた。

天城澪は首まで強張り、息が浅くなる。

――怒ってる。

その確信が、さらに彼女を追い詰めた。

「私、九条和也とはもう別れました」

早口で言い切る。

だから、九条裕也が九条和也の顔を立てて、わざわざ病院まで来る必要なんてない。

遠ざけるなら、徹底的に。

九条裕也の動きが、ふっと止まった。

けれど目の奥に、かすかな愉悦が浮かぶ。

「……別れた?」

問いではない。別の熱を含んだ声音。

天城澪は気づかず、強く頷いた。

「はい。叔父さん、今までありがとうございました。私――」

次の瞬間、温かい掌が顎を掴み、持ち上げた。

無理やり見上げさせられる。

高い。近い。

九条裕也の眼差しは深く暗く、覗き込まれただけで逃げ出したくなる。

「やっと少し賢くなった」

天城澪は目を見開いた。意味がわからない。

九条裕也の親指が、顎をゆっくり撫でる。

乾いた、少し荒い指先が肌をなぞり、天城澪は全身が固まった。

怯えた兎みたいに、動けない。

――可愛い。

九条裕也は手を放した。名残惜しさを隠すように、声を低く落とす。

「別れたなら、戻るな」

「祖母のことは俺が人を付ける。腕のいい医者も呼ぶ。条件は、お前も大人しく治療を受けることだ」

どこか掠れた声だった。

天城澪は呆然とする。

別れたのに、どうして九条裕也がここまで――。

「……あなた……」

驚きが、そのまま顔に出た。

九条裕也は短く言う。

「祖母を治したくないのか」

治したい。

もちろんだ。

祖母は彼女を育ててくれた。苦しむ姿を見て見ぬふりなんてできない。

「……治したいです」

天城澪は真っ直ぐ答えた。

「ありがとうございます、叔父さん。お借りしたものは、必ずお返しします」

その真剣さに、九条裕也の視線が深くなる。

「返させる」

彼は商人だ。損はしない。

……

数日後。

立木宣人の世話のもと、天城澪の体調は持ち直し、顔色にも血が戻った。

「最初からこうしてりゃ倒れなかったんだよ。退院しても薬はきちんと飲め。休め。定期検査も忘れるな。何かあったらすぐ電話、いいな?」

立木宣人の念押しはしつこいほどだったが、悪意はない。

天城澪は素直に頷いた。

祖母の容体も落ち着いている。専属の人も付いている。

安心して退院できた。

――片づけなきゃいけないものが、まだ残っている。

病院を出ると、天城澪はまっすぐ会社へ向かった。

九条和也は昨日から出勤していた。天城澪が来ないことに苛立ち、電話もブロックされていると知って、腹の虫が収まらない。

彼女が来たと聞くや、すぐ自室へ呼びつけた。

「天城澪、お前、自分がどれだけやり過ぎてるかわかってるのか?」

溜め込んだ怒りが、彼女の冷えた表情を見た瞬間に爆発する。

「俺の九条家での立場、お前が一番わかってるだろ。なのに助けないどころか追い打ちをかける。天城澪、お前は本当に俺を愛してるのか?」

昔みたいに従って、そばにいろ。

その願望が、言葉の端々から滲んでいた。

「……いいえ」

天城澪は、少年時代から心を占めてきた顔を見つめた。

胸は痛いのに、表情はさらに冷える。

九条和也が固まる。

「……いいえって、何が」

「愛してない」

静かな断言だった。

天城澪は用意していた辞表を差し出す。

「九条社長。退職届です」

九条和也の視線が紙に落ち、二秒で揺れた。

辞める?

本気で俺から離れる気か?

俺以外に、誰が彼女を雇う?

誰が彼女を守る?

「結婚を迫るために、辞職まで使うのか。……見くびってた」

手段?

天城澪の胸が締め付けられる。

それでも息を吸い、淡々と言った。

「引き継ぎは最短で済ませます」

九条和也の瞳が震える。

「……本気か?」

「はい」

「用がないなら失礼します」

背を向けた瞬間、九条和也は理由のない焦りに襲われた。

反射的に手首を掴む。

「俺は認めない!」

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