第1章 誘拐された

エヴァは誘拐された。義理の妹のアイヴィーと一緒に。

くそっ。この場所、鼻につくのは錆の臭いばかりだ。

手首に食い込むプラスチックの結束バンドは容赦なくきつい。息を吸うたび、埃と黴を肺の奥まで押し込まれるような気分になる。

背後で、アイヴィーがすすり泣いていた。

あれは悲劇のヒロイン気取りの泣き方だ。自分がどれだけ可哀想か、世界中に聞かせるための泣き声。

ちくしょう、こんな状況でも芝居を忘れないのか。

けれど、ここでは誰もそんな演技に付き合ってくれない。

無精髭だらけの誘拐犯が、いきなり振り向いた。毒づきながら重いブーツを持ち上げ、アイヴィーの腹を思いきり蹴りつける。

「黙れ、このクソビッチ! もう一回泣いてみろ、先に頭をぶち抜くぞ!」

次の瞬間、黒いSUVが3台、獣みたいに工場へ突っ込んできた。タイヤが耳をつんざく悲鳴を上げ、ヘッドライトの白が闇を引き裂く。

エヴァは目を細めた。

家族が来た。

ほんの一瞬だけ――忌々しい希望が毒蛇みたいに胸へ滑り込んでくる。

来てくれた。助けに来てくれたんだ。

逆光の中から、人影が現れる。

エイドリアン。兄。いつだってスーツを着崩さない男。妹を助けに来たというより、今から役員会に出るみたいな顔をしている。

エレノア。母。半ば取り乱していて、その視線はアイヴィーに釘付けだった。エヴァのことなど、一度も見ない。

ジュリアン。いつもの吐き気がするような優越感を纏って、まるで自分が監督した舞台でも鑑賞しているみたいに立っている。

そしてコール。顔色は死人みたいに真っ青で、エヴァとアイヴィーのあいだを視線が揺れていた。罪悪感に満ちた目。

ああ、昔わたしを失くした兄。せいぜい後ろめたく思っていればいい。

エヴァにはわかっていた。こいつらは自分を助けに来たんじゃない。

救いたいのはアイヴィーだ。

ウィットロック家で愛されて育ったのはアイヴィーであって、自分じゃない。彼らはエヴァを愛していないし、気にもかけていない。

けれど、予想外だったのは――リアムまで車から降りてきたことだ。

恋人のリアム。

彼の顔には、今まで見たこともないほどの恐怖が浮かんでいた。その表情だけで、心臓が一拍抜ける。目の奥が、じわりと熱くなる。

この忌々しい場所で、このどうしようもない世界で。

本当に自分を気にかけてくれるのは、リアムだけ。

「何が望みだ」

エイドリアンが口を開く。低い声が、がらんとした工場内に反響した。

「金だ!」

誘拐犯が唐突に銃を振り上げた。銃口をアイヴィーの頭に突きつけ、狂ったように怒鳴る。

「さもなきゃ誰も帰さねえ! こいつらの頭をぶち撒けてやる!」

「銃を下ろせ。望む額を言え!」

ジュリアンは一歩前へ踏み出した。その目には、人を見下すような、吐き気を催すほどの傲慢さが浮かんでいる。

「金なら問題ない。そんなものは最初から問題にならない。ウィットロック家に一番あるのは、金だからな」

「5000万ドルだ!」

誘拐犯が吠える。目の奥で欲望がぎらついていた。

「いいだろう」

ジュリアンは一瞬たりとも迷わなかった。

「1億でも構わない。人質を解放しろ。今すぐ口座を出せ」

静寂。

死んだみたいな静寂。

誘拐犯はジュリアンを見た。それから、張りつめた顔で並ぶスーツ姿の金持ちどもを見回し、ふいに鼻で笑う。

銃口でエヴァを指し、次にアイヴィーを指した。

「おまえらのお姫様が2人か。おめでてえおとぎ話みてえだな?」

黄ばんだ歯を見せて、にたりと笑う。

「じゃあ選べ。連れて帰れるのは1人だけだ。もう1人はここに置いていけ。俺が好きに遊んで、金の着金を確認したら、そっちも解放してやる」

空気が凍りついた。

エレノアの嗚咽がぴたりと止まる。口元を押さえ、目に浮かぶのは恐怖。けれど彼女が見ているのは、やっぱりアイヴィーだけ。いつだってそうだ。

「馬鹿げている!」

エイドリアンが言った。主導権を取り戻そうとする硬い声。

「そんな選択をするはずがない」

「なら、こいつから死ぬぞ!」

誘拐犯はいきなり銃口をアイヴィーへ向けた。

「だめ!」

エレノアが悲鳴を上げる。

「だめよ! その子じゃない! アイヴィーを行かせて、お願い、先にその子を! まだ子供なのよ!」

エヴァは鼻で笑った。口に突っ込まれた汚れた布のせいで、それは泣き声みたいな呻きにしかならない。

子供?

アイヴィーは自分より、たった1歳下なだけだ。

「それが最も理性的な判断だ」

ジュリアンまで同調した。毒を含んだような声音で。

「アイヴィーには……こういう状況は無理だ。エヴァとは違う」

エヴァにとって、こいつらがどちらを選ぶかなんてどうでもよかった。

視線はその向こう――リアムに釘付けだった。

お願い、リアム。

やめて。こいつらと同じにならないで。

昨夜のことが、脳裏を焼く。彼が自分を抱いた夜。指先が肌をなぞり、唇が耳元で囁いた言葉。

――エヴァ、おまえは俺のものだ。ずっと。

身体を押しつけてくる重み。匂い。彼が自分の中へ入り込んでくる感覚。

彼は言った。おまえは俺の世界の中心だ、と。

なら、今ここで証明しなさいよ。

リアムの唇が震える。泣き顔のアイヴィーを見て、それからエヴァへ視線を移す。

その目には、引き裂かれそうな苦しみがあった。

「リアム……!」

アイヴィーが、男の心を折るのが得意なあの声で、彼の名を呼ぶ。

コールが一歩前へ踏み出した。

「こんなの、だめだ――」

「コール!」

エイドリアンの鋭い一喝が飛ぶ。

「愚かな真似はするな」

リアムは目を閉じた。もう一度開いたとき、彼はエヴァを見なかった。

見ていたのは、誘拐犯だ。

「アイヴィーを行かせてくれ」

掠れた声だった。ほとんど聞こえないくらいに。

「エヴァは強い。……耐えられる」

強い。

その一言は、銃弾みたいに正確にエヴァの心臓を撃ち抜いた。

世界から、音も色も、一瞬で消える。

エレノアの叫びも、エイドリアンの指示も、誘拐犯の嘲るような笑い声も、全部が遠い雑音に変わった。

動いているのはリアムの唇だけ。

自分に死刑を言い渡した、その言葉だけがはっきり見えた。

強い、だって?

自分は強いから、見捨てられて当然。

自分は強いから、死んで当然。

自分は強いから、義理の娘のために場所を空けて当然――!!

胸の奥で、冷たくて見知らぬ力がせり上がる。

恐怖を呑み込み、失恋の痛みを呑み込み、残ったのは怒りだけ。

破滅的な怒りだった。

ふざけるな。

くたばれ、リアム。

くたばれ、ウィットロック家の人間ども。

エヴァはもう誰も見なかった。必死に手首を捩じり始める。結束バンドの縁を、背後の錆びた金属フレームの鋭い端へ擦りつけた。

自分で出る。自分の足で逃げる。

もし生きてここを出られたなら、全員に代償を払わせてやる。

たぶん、動きが大きすぎたのだろう。

その瞬間、場が崩れた。

刺激された誘拐犯が、狂った牛みたいに振り向く。

「どこへ行く気だ、このクズ女ァ?!」

怒号が工場に響き、時間がゆっくりになった気がした。

エヴァは見た。

男が銃を上げるのを。

引き金を絞るのを。

どん、と轟音が腹の底まで震わせる。

次の瞬間、焼けた鉄を押し当てられたみたいな激痛が、腹を貫いた。

エヴァは視線を落とす。

濃い色のTシャツの上で、血がみるみる広がっていく。

一瞬で力が抜け、身体が後ろへ倒れた。

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