第2章 屋敷へ戻る
エヴァの意識が闇に沈みきる、その寸前。耳に飛び込んできたのは、あいつらの悲鳴だった。
「エヴァ!」
「うそだろ――!」
「いやっ……神様、エヴァ!」
声は恐怖と後悔に濡れていた。とくにリアムの叫びは、喉が裂けそうなほど切迫していて――。
馬鹿みたい。
どうして、自分が死ぬその瞬間になってから、後悔するの?
……
鼻先をかすめたのは、嗅ぎ慣れた高級な香水の匂い。頭が割れそうに痛む。
エヴァは勢いよく目を開けた。
水晶のシャンデリア。螺旋階段。
――ウィットロック邸。
戻ってきた……?
「いったい何がしたいんだ、エヴァ」
ジュリアンの声。忌々しい兄だ。腕を組み、尊大に目の前へ立っている。その顔に罪悪感は一欠片もない。
「……何ですって」
声はしゃがれていた。喉の奥にはまだ、死の灼けつく感触が残っている。
「だから言ってるだろ。『The Estate』の出演枠はアイヴィーに譲れ」
記憶が一気に押し寄せた。
『The Estate』。一年前のリアリティショー。
前の人生で、エヴァはまさにこの理屈でジュリアンに押し切られ、枠をアイヴィーに譲った。
そしてアイヴィーは番組で一躍ブレイクし、国民的ヒロインになった。対してエヴァは見向きもされず、誘拐され、見捨てられ、腹を撃ち抜かれて死んだ。
――なら。
自分は、一年前に戻ってきたのだ。
腹の奥がずきりと疼く。弾丸が肉を裂いた灼熱の痛みが、ついさっきのことみたいに蘇る。
「嫌よ」
エヴァは言った。
ジュリアンが固まる。そんな返答は想定していなかったらしい。
「……何だって?」
「嫌だって言ったの」
エヴァは彼の目をまっすぐ見据えた。驚くほど静かな声で。
「その枠は私のものよ」
「頭でもおかしくなったのか?」
ジュリアンの眉がひそみ、怒りが目の奥で燃え始める。
「エヴァ、俺を怒らせるな。アイヴィーにはこのチャンスが必要なんだ」
「必要?」
エヴァは冷笑した。血の味がするような笑いだった。
「私の人生を奪っただけじゃ足りなくて、今度は仕事まで奪う気? アイヴィーは十八年間、ウィットロック家のお姫様として生きてきた。私は? 見つけ出されたのはたった一年前。あてがわれた部屋なんて客室以下。そんな私が自力で掴んだものを、どうしてあの子に差し出さなきゃならないの」
「それがどうした!」
ジュリアンは声を荒げた。
「おまえはウィットロック家の人間だろう! ならアイヴィーのことを第一に考えるべきだ!」
指先がエヴァを刺す。言うことを聞かない犬でも叱るみたいに。
「私がアイヴィーを第一に?」
エヴァの声も吊り上がる。積もり積もった怒りと憎悪が、この瞬間ついに噴き出した。
「じゃあ、誰が私を第一に考えたの? あの廃工場で、あんたたちがアイヴィーを選んだとき、誰が私のことを考えたのよ?!」
――しまった。
口が滑った。
ジュリアンの顔に困惑が浮かぶ。
「工場? 何をわけのわからないことを言ってる」
エヴァは気づく。あの出来事は、まだ起きていない。
でも自分にとっては、もう起きたことだ。骨の髄にまで刻みつけられた現実なのだ。
「もう、ジュリアンお兄様、そんなふうにお姉様を責めないで……」
アイヴィーが近づいてきた。白いワンピース姿。まるで忌々しい天使だ。
ジュリアンの腕にそっと絡みつき、あのか弱い声で言う。
「お姉様、怒らないで。このチャンスは本来お姉様のものなんだもの。私、本当にいらないから。ほんとよ?」
見て。なんて見事な芝居。
たった数言で、エヴァを家族と仕事を奪い合う悪女に仕立て上げた。
案の定、ジュリアンの顔つきがさらに冷たくなる。
「アイヴィーはこんなに思いやりがあるのに、おまえはどうして少しも譲れない? これは相談じゃない。必ず譲れ。でなければ、この家から出ていけ」
出ていけ?
前のエヴァなら、その一言で全身が震えただろう。ひざまずいてでも許しを乞うたかもしれない。
この家に飢えていたから。何もかも投げ出してでも欲しかったから。
けれど今は。
笑いしか出なかった。
「いいわよ」
エヴァははっきりと言った。
今度こそジュリアンは言葉を失った。
脅しのつもりだったのだろう。けれど彼は知らない。
それはエヴァがいちばん欲しかったものを、まさに与えているのだと。
――自由を。
エヴァはくるりと背を向け、ポケットからウィットロック家の施しを象徴する銀行カードを取り出すと、磨き上げられた大理石の床へ叩きつけた。
「このカード、一銭も使ってない」
一語ずつ、噛み砕くように言う。
「返すわ。今日この瞬間から、私はウィットロック家とは完全に無関係。あんたたちは、そのまま間抜けなまま思い上がっていればいい」
「きさま――!」
ジュリアンの顔が怒りで真っ赤に染まる。
「お兄様に向かって何て口の利き方! 礼儀ってものがないの?!」
アイヴィーがいきなり駆け寄ってきた。美しい顔に、今は正義感に満ちた表情が浮かんでいる。
振り上げられた手が、エヴァの頬へ向かって振り下ろされる。
けれど、その前に。
エヴァはアイヴィーの手首を掴んだ。
そして全身の力を込め、逆手で思いきり頬を張る。
ぱんッ――!
乾いた音がホール中に響き、場が凍りついた。
アイヴィーは頬を押さえ、信じられないものを見る目でエヴァを見上げる。
エヴァは身をかがめ、二人にしか聞こえない声で囁いた。
「その薄気味悪い芝居、もうやめなさいよ、アイヴィー。あんたがどんな代物か、私は誰より知ってる」
アイヴィーは動けない。身体が震えているのがわかった。
彼女にはわからないのだろう。いつもおどおどしていたエヴァが、なぜ突然こんなふうに変わったのか。
エヴァは手を放し、そのまま玄関へ向かう。背後からジュリアンの怒鳴り声が飛んだ。
「エヴァ! その扉を出たら最後、ハリウッドで生きていけなくしてやる! 誓ってな!」
エヴァは振り返らない。
ただ扉を開け、外の陽射しの中へ踏み出した。
干される?
知るもんか。
くたばれ、ウィットロック家。
エヴァは自分のマンションへ戻った。
エキストラの仕事をして稼いだ金で借りた部屋。唯一の居場所。
ソファに身を投げ出したところで、スマホが鳴る。画面に表示されたのはリアムの名前だった。
心臓がぎゅっと縮む。
あの廃工場で、彼が自分を見つめ、それから『アイヴィーを行かせて』と言った光景が、また脳裏に蘇る。
エヴァは通話を取った。
「エヴァ、ハニー、今どこにいる?」
リアムの声はいつも通り優しい。気遣わしげで、甘い。
「ジュリアンから聞いたよ。リアリティショーの枠くらい、アイヴィーに譲ってやれないか? ほら、彼女は……」
「リアム」
エヴァは遮った。淀んだ湖面みたいに静かな声で。
「ん?」
「愛してるって言いながら、私の仕事をアイヴィーに譲れって言うの。自分で気持ち悪いと思わない?」
電話の向こうが沈黙する。
「昨夜のこと、覚えてる?」
エヴァは静かに続けた。一言一言が毒を塗った刃みたいだった。
「私を抱きながら、その一方で、どうやって私のチャンスをお姫様に差し出すか考えてたの?」
「エヴァ! 何てこと言うんだ!」
声は大きい。だが、その奥の狼狽は隠しきれていない。
「だって、そうしたでしょう」
エヴァの指先が腹部をなぞる。幻の痛みがまた灼けるように疼いた。
「終わりよ、リアム。もう連絡してこないで」
言い返す隙など与えない。通話を切り、そのまま番号をブロックリストへ放り込む。
すべて終えると、身体の最後の力まで抜け落ちた気がした。
テレビをつける。スポーツニュースが流れていた。
画面に一人の男が現れる。
F1マシンから降り、ヘルメットを脱ぐ。息を呑むほど端正な顔立ち。
汗が彫りの深い顎の線を伝い落ち、その目は鷹みたいに鋭く、野性的な色気と圧倒的な自信に満ちていた。
セバスチャン。
伝説的レーサー。ヴァンスグループの社長。絶大な影響力を持ち、あらゆる女が夢見るすべてを持つ男。
エヴァは彼を知っている。
『The Estate』の謎の男性ゲストだ。
その瞬間、すべてが繋がった。
アイヴィーがあれほどまでにあの枠を欲しがった理由。それは有名になるためじゃない。
欲しかったのは、この男だ。
