第6章 ハイヒールでビーチを耕しに来たの?
そのとき、ティファニーまでがひょいと寄ってきて、面白がった顔でこの騒ぎを眺めていた。リアムはアイヴィーの背後に立ち、こわばった表情のまま、どちらにつくべきか決めかねている。
少し離れたところからアメリアもやって来た。床の水跡を見て眉をひそめる。けれど、何も言わない。
空気は、いちばん醜い形へ転がり落ちそうになっていた。
「廊下の防犯カメラ映像を確認すれば済む話だ」
声は階段のほうから落ちてきた。セバスチャンが手すりにもたれ、ミネラルウォーターのボトルを片手に立っている。退屈な試合でも眺めているみたいな顔で。
「制作側は共用スペース全部にカメラを設置してる」
天井の隅のカメラへ、ちらりと視線を投げる。声音はどこまでも平坦だった。
「この廊下だけでも少なくとも2台ある。映像を巻き戻せば、誰が、何時何分に水をこぼしたか、一発でわかる」
廊下がしんと静まる。
アイヴィーの頬にはまだ涙が残っている。だが泣き声は止まっていた。
コールも口を開きかけたまま、言葉が出ない。
三秒ほどの沈黙のあと、アイヴィーは袖で涙を拭い、ぎこちなく笑った。
「もういいの……たぶん、本当に事故かもしれないし。誰かがうっかりしただけかもしれないもの。私、大丈夫だから。調べなくていいわ」
そう言って立ち上がり、足を引きずるようにして歩き出す。
調べなくていい。そりゃそうだ。
真実は、転んだ痛みよりずっと痛い。
コールはアイヴィーの背中を見つめ、それからエヴァへ視線を向け、最後には目を逸らしたままアイヴィーを追った。
廊下にはエヴァとセバスチャンだけが残る。
セバスチャンはボトルの蓋を閉め、何も言わずに階段を上がっていった。
エヴァは、その背中が踊り場の角へ消えるまで見送る。
よくわかっている。
この男は自分を助けたわけじゃない。ただ、馬鹿が嫌いなだけだ。
――――
夜10時。
屋敷の灯りが、ひとつまたひとつと落ちていく。
エヴァが寝室のドアを開けると、白いリネンをまとった大きなベッドが、薄暗がりの中でやけに存在感を放っていた。
セバスチャンはすでに部屋にいた。黒いTシャツに着替え、窓辺のソファでスマホを見ている。
エヴァはソファへ向かった。
セバスチャンが顔を上げる。
「私、ソファで寝る」
「先にいたのは俺だ」
エヴァが見上げる。セバスチャンも見下ろす。
「ベッドを使え」
「あなたが使って」
また三秒ほどの沈黙。
セバスチャンは立ち上がった。ベッドへ向かうのかと思えば、クローゼットから予備のブランケットを引っ張り出し、ソファの反対側へ放る。
「十分広い。半分ずつ使えばいい」
エヴァはソファを見下ろした。確かに、L字の大きな三人掛けだ。
「頭の向きは逆にするわよ」
「当然だ」
セバスチャンが先に横になる。長い脚を肘掛けに投げ出し、目を閉じる。三秒後には呼吸が静かに整っていた。
エヴァも反対側へ身を横たえ、ブランケットをしっかり引き寄せる。
――――
「あなたがウィットロック家に見つかった娘って子? へえ……見た感じ、大したことないじゃない」
ティファニーが白目を剥き、挑発たっぷりに吐き捨てた。
エヴァは足を止め、振り返って笑う。
「そう? じゃあせめて歌の腕前くらいはその目利きよりまともだといいわね。じゃないとこの番組、3日も持たないわよ」
ティファニーの顔が真っ赤になる。だがエヴァはもう見ない。ドアを押し開け、別荘の中へ入っていった。
21日間のサバイバル戦。
まだ始まったばかりだ。
――――
翌朝早く、番組スタッフのスピーカーが全員を叩き起こした。
今日はビーチデー。
監督がメガホンを手に砂浜へ立ち、ルールを告げる。
「今夜の夕食は5組のペアで自力調達、自力調理だ! 食材は番組側が用意する。どう料理するか、誰が作るか、全部そっちで決めろ。専属シェフなんていない。自分の手でどうにかしろ!」
あちこちから悲鳴みたいな声が上がった。普段キッチンがどんな形かさえ知らないような御曹司とお嬢様には、相当きついらしい。
エヴァはデニムのショートパンツに白いキャミソール、足元は安いビーチサンダル。人だかりの端で潮風を受けていた。心地いい。
そのとき、背後から大げさな歓声が上がる。
「きゃあ、アイヴィー、その格好すっごく素敵!」
ティファニーがわざとらしく口元を押さえる。
エヴァが振り返る。
アイヴィーが別荘のウッドデッキを降りてくるところだった。シャンパンカラーの引きずるドレス。裾には細かなストーンが散りばめられ、光を浴びてきらきらと輝く。
極めつけは足元だ。
どう見ても10センチはあるピンヒール。
ビーチにそれ?
エヴァは眉を上げた。
カメラが一斉にアイヴィーへ向く。アイヴィーはその視線を心地よさそうに受け止め、完璧なスイートハートの笑みのまま、背筋を伸ばして砂浜へ降りていく。
そして、最初の一歩を砂に入れた瞬間。
ぐきっ、と嫌な音。
細いヒールが柔らかな砂に深々とめり込んだ。
アイヴィーの身体が前につんのめる。両手を空中でばたつかせ、危うくそのまま砂へ突っ込みかけた。
「きゃっ」
可愛らしい悲鳴。だが顔色は一瞬で変わる。
何人かがこらえきれず吹き出した。
アイヴィーは唇を噛み、足を引き抜こうとする。だがヒールはすっかり埋まっていて動かない。力めば力むほど体勢は崩れ、泥にはまったフラミンゴみたいに必死でもがく羽目になる。
視線が泳ぐ。救助対象を探しているのだ。
ジュリアンが2メートルほど離れたところで一歩踏み出しかける。だがアイヴィーの目は彼を素通りし、別の男へ落ちた。
セバスチャン。
今日はずいぶんラフな格好だった。黒のノースリーブTシャツにグレーのビーチショーツ。それだけの装いなのに、近寄りがたい圧だけは薄れない。両手をポケットに入れ、海を見ている。アイヴィーのほうなど見向きもしない。
アイヴィーはひとつ深呼吸し、可哀想な表情を作る。
「セバスチャン……」
声は蜜みたいに甘い。
「ヒールが砂に挟まってしまって、足首も痛くて……少し支えていただけませんか?」
カメラがすぐに寄る。
全員が息を呑んだ。この頂点の男がどう返すのか、待っている。
ようやくセバスチャンが顔を向けた。
アイヴィーを上から下まで一度見て、視線が砂に刺さったヒールで二秒止まる。
「頭ってのは都合のいいものだ」
低い声に感情の起伏はない。
「持って出てこなかったのが惜しいな」
空気が、一瞬で凍る。
アイヴィーの笑顔が固まり、みるみる目が潤んでいく。
「わ、私……ただ……」
「砂浜にピンヒールか。耕しに来たのか?」
セバスチャンは言い訳を最後まで聞かず、容赦なく切り捨てた。
「今日がビーチ企画だって番組側から知らされてなかったのか。それとも、この砂浜ごときじゃその靴に見合わないとでも思ったか」
ついに誰かが耐えきれず、大笑いした。
アメリアがエヴァの腕を引き、声を潜める。
「ちょっと、口が悪すぎ……最高なんだけど」
エヴァは、青ざめたり赤くなったり忙しいアイヴィーの顔を見て、胸の底から笑いが込み上げた。
これが、アイヴィーが必死で狙っていた男。
いい気味でしょう?
アイヴィーはその場に立ち尽くし、涙をとうとうこぼした。
「ただ、少し綺麗に見えたくて……ごめんなさい……」
そしてジュリアンへ振り向き、助けを求める。
「兄さん……」
ジュリアンはたちまち顔色を変え、大股で歩み寄ってアイヴィーを支えた。そしてセバスチャンを睨みつける。
「言い過ぎだ! 彼女はただの女の子なんだぞ、そんな言い方をする必要があるか!」
セバスチャンは視線すらくれない。そのまま背を向け、ビーチバレーのコートへ歩いていった。
ジュリアンの顔が醜く歪む。彼はアイヴィーの足元を見て眉をひそめた。
「泣くな。部屋へ戻って靴を替えよう」
「ちょっと待って」
