第2章

スマートフォンが震え、虚ろな意識が引き戻される。LINEの通知だ。桜子からのメッセージが画面にポップアップしていた。

【お姉ちゃん、みんなに伝えたよ。今から帰るって】

安堵とも諦めともつかない溜め息が漏れる。震える指で、LINEのアプリをアンインストールしようとした。

もう、あの白々しい気遣いの言葉など、見たくもなかった。

その瞬間、スマートフォンが狂ったように震え出し、立て続けに届く通知が、弾丸のように視界に撃ち込まれた。

【母】:夜子、今すぐ家に帰るから!

【兄・健太】:どこにいるんだ? 馬鹿なことはやめろ!

【弟・勇太】:帰るかよ、クソが! また仮病で同情引こうとしてんのか? いい加減にしろよ、マジで!

胸の奥が、鋭い刃物で抉られたように痛んだ。私は乾いた笑みを浮かべながら、勇太に返信する。

【ええ、もうすぐ死ぬから、かしら?】

バスタブのお湯は、とっくにぬるくなり、流れ出た血で薄紅色に染まっている。まるで、散り際を間違えた桜のようだ。

桜子。私が誘拐されて行方不明だった三年後、両親が引き取った養女。家族全員を暗い影から救い出し、太陽のように笑う、完璧な娘。

そして私、草薙夜子。十歳で発見され、この家に戻ってきたけれど、ただ臆病で内向的で、愛想のない「異物」でしかなかった。

家族は私に、壊れ物を扱うように遠慮がちで、桜子には、本当の家族として親密だった。

【弟・勇太】:その手はもう通用しねえよ! この間、お前の薬、調べたんだよ。ただのビタミン剤じゃねえか! もう胃が痛いフリとかすんな、吐き気がする!

手首の傷が、ずきん、と脈打つように痛む。血が流れ出る速度が、心なしか速まった気がした。

彼らは知らない。私が本当に、末期の胃がんで、余命三ヶ月だと宣告されていることを。

【母】:夜子、お母さん、もうすぐ着くから。早まらないでちょうだい!

スマートフォンの画面を、力なく見つめる。そこへ、追い打ちをかけるように勇太からのメッセージが届いた。一文字一文字が、私の心を削り取っていく。

【弟・勇太】:時々思うよ。お前なんか、あのまま見つからなければよかったってな。

手首から、また温かい血が溢れ出す。けれど、頬を伝う涙は、音もなくバスタブの水に溶けて消えた。

この家に溶け込みたくて、愛されたくて、あんなに必死だったのに。返ってきたのは、「見つからなければよかった」という一言。

「草薙夜子!」

そのとき、電話の向こうから、夏目隆の声が力強く鼓膜を撃ち抜いた。

「喋れ!」

背景に、ゴーッという荒々しい風の音が混じっている。きっと、こちらへ向かっている最中なのだろう。朦朧とする意識の中で、彼がまだ通話を切っていなかったことに、今更ながら気づいた。

「喋れ!」

彼は再び命じた。その声には、拒絶を許さない有無を言わせぬ響きがあった。

冷え切っていた身体の感覚が、ゆっくりと戻ってくる。私は本能的に、もう片方の手で手首の傷口を強く押さえた。のろのろとバスタブから立ち上がる。体から滑り落ちた水滴が、床の血痕と混じり合い、歪な赤い花を咲かせた。

「墓地、あなたにあげる」

電話に向かって、自分でも驚くほど平坦な声が出た。

「私にはもう、必要ないから」

スマートフォンが、また震える。画面に映る家族からの無神経なメッセージをただ眺め、深く、深く息を吸ってから、返信ボタンを押した。

「はい、わかりました」

わかった。彼らは、本当はずっと、私を必要としていなかった。

だから私も、もう彼らを必要としない。それだけのことだ。

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