墓の恋

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渡り雨 · 完結 · 21.3k 文字

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紹介

癌になった。私は自分の墓を買った。

家族に伝えても、まるで興味がないようだった。ああ、私は愛されていなかったのか。

誰もいない人生なら、もういらない。そう思った矢先、一本の電話が、私の運命を変えることになる。

それは、絶望の淵にいた私に、初めて愛をくれた人との出会いだった。

チャプター 1

 温かいお湯が胸元まで満ちる。湯船に沈めた手首から滲み出た血が、まるで桜の花びらが散るように、淡い軌跡を描いて広がっていく。

 私、草薙夜子は、末期の胃がんと診断されて三日、この愛されることのなかった人生に、自ら幕を下ろすことを決めた。

 手首の切り傷に目を落とす。そこからゆっくりと命が流れ出ていく。不思議と痛みはなく、むしろ、ようやくすべてから解放されるのだという安堵感があった。

 最後の安息の地は、もう決めてある。多摩丘陵墓地。見晴らしが良く、桜の木々に囲まれたあの場所だ。

「来世があるのなら、もう『他人』みたいな本物の令嬢にはなりたくない」

 私は静かに自分に言い聞かせた。

「もう、草薙桜子に何もかも奪われるのは、こりごりだから」

 両親も、兄さんたちも、私が大切にしていたものも、すべて。

 描いてきたイラストも、私物も、すべて処分した。どうせ誰も、私の絵を惜しんだりはしない。誰も、私のことなど惜しまないのと同じように。

 不意に、枕元に置いたスマートフォンが震え、死にゆく部屋の静寂を破った。一瞬ためらったが、結局は画面をタップして通話に出る。

『もしもし、草薙様でいらっしゃいますか?』

 少しおどおどした、若い男性の声が聞こえた。

『こちらは多摩丘陵墓地管理センターの者です。ご購入いただいた墓地について、少々問題が発生しまして……』

「問題?」

 自分の声が、驚くほど平坦に響いた。

『大変申し訳ございません。お客様がお選びになった区画が、同時に夏目隆様という方にも販売されてしまったようでして。完全にこちらのシステムエラーで……』

「なんですって?」

 全身の血が、頭に逆流するような感覚。

「あの場所は、もう私の名義で契約が済んでいるはずです」

『はい、おっしゃる通りです。ただ、夏目様のご両親がすぐ隣に埋葬されておりまして、ご本人もそちらの区画を強く希望されて……』

「場所を譲るつもりはありません」

 私は冷たく言い放ち、彼の言葉を遮った。浴槽の赤は、先ほどよりもずっと濃く、深く広がっている。

『少々お待ちいただけますでしょうか。夏目様が、直接お話したいと……』

 電話の向こうの声が、低く、けれど芯のある男性のものに変わった。

『草薙さん。この度はご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。夏目です。埋め合わせは必ずいたします。どのような条件でもお申し付けください』

「今すぐ、そこを使うので」

 私は静かに告げた。

『……どういう、意味でしょうか?』

 彼の声に、明らかな困惑が滲む。

「今日、死ぬんです。だから、本当に急いでるんですよ」

 水面に広がった血は、もはや筋ではなく、一枚の赤い膜のようだ。

「いっそ、競争でもしますか? どちらが先に、この世からいなくなるか」

 電話の向こうが、数秒、沈黙した。

『……草薙さん、ご冗談ですよね?』

 私は答えず、ぽた、ぽたと血が滴る音をスマートフォンのマイクに拾わせる。それから、家族のLINEグループを開き、メッセージを打ち込んだ。

【あとはお願いします。本日中に火葬して、多摩丘陵墓地に埋葬してください。場所は購入済みです】

 誰かに遺体を見つけてもらい、処理してもらう必要があった。微かに震える指で、もう一文付け加える。

【これが、最後の頼みです】

 続けて、手首の傷と、血で赤く染まったお湯の写真を送信した。

 送信とほぼ同時に、画面に無機質な通知が表示される。

【草薙正一がグループを退会しました】

 乾いた笑いが漏れた。やっぱり。お父さんは、最後まで私と向き合うことすら拒絶するのだ。彼らには、私のいない家族LINEがあるのだろう。そこはきっと、いつも笑い声で溢れているに違いない。

『草薙さん? もしもし、草薙さん!』

 電話の向こうで、夏目隆が必死に呼びかけている。

 私はそっと目を閉じた。手から滑り落ちたスマートフォンが、ちゃぷん、と小さな音を立てて水の中に消える。

 死が来る。これでやっと、誰も私を傷つけられなくなる。

 そのとき、水中で最後の光を放っていた画面に、ふと通知が浮かび上がった。

【草薙大介】:1

「1」って、何?

大介兄お兄さんが私に返信してくるなんて。打ち間違い? それともこれが、私の人生最後のメッセージ――意味のない、ただの数字ひとつ?

 電話の向こうから、突然、バタバタという慌ただしい足音と、風を切る音が聞こえてきた。夏目隆が、走っている。

 意識が朦朧としてきた。墓地のことで揉めていた見ず知らずの男が、今、何をしているのだろう。ほんの少しだけ、好奇心が湧いた。

 でも、もうどうでもいい。

 私は静かに目を閉じ、すべてを闇に委ねた。

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