第1章

彩羽視点

「起きろ」

 情事に耽った翌朝特有の掠れと、いくばくかの揶揄を含んだ、しゃがれた声が響く。

 私の体が強張る。

 勢いよく目を開ける。本来なら、Q地区にある安アパートの剥がれかけた花柄の壁紙が目に入るはずだった。だが、網膜に焼き付いたのは、私の奨学金ローンよりもはるか高額な工費がかかっていそうな天井だ。

 誰かが大鉄槌で前頭葉を叩いているかのように、頭が割れそうだ。

 頭を巡らせる。勢い余って、視界がぐるりと回る。

 ドア枠に寄りかかっているのは、西宮弥介だ。上半身は裸で、片手にコーヒーカップを持っている。苛立つほど元気そうだ。

「ふぅん……」彼は声を間延びさせ、トレードマークである意地悪な笑みを浮かべる。

「こいつは意外な展開になったな」

 私はシーツを顎まで引き上げる。「あんた、ここで何してんのよ!?」

「ここは俺の家だぞ、彩羽。それより聞くべきは……」彼は優雅にコーヒーを啜り、私の剥き出しの肩へと視線を這わせる。

「ついに『使用人の娘』が俺のベッドまで這い上がってきたってことか? お前の母親はなんて言うだろうな」

 二日酔いよりも激しい羞恥心が襲いかかる。

「黙って!」

「感動的だねえ」彼は歩み寄り、サイドテーブルにコーヒーを置く。

「飲めよ。今の顔、マスカラ戦争に惨敗したアライグマみたいだぞ」

「あんたのコーヒーなんていらない。どうして私がここにいるのか、それだけ教えて」

「覚えてないのか?」彼は片眉を吊り上げる。七歳の頃から剃り落としてやりたいと思っていた、あの傲慢で完璧に整えられた眉だ。

「パーティーだよ。テキーラだろ? お前が受賞した香水を俺が『反抗期と安アパートの臭い』と評したら、飲み比べを挑んできたくせに」

 記憶がフラッシュバックする。鋭利で、断片的な映像。

 昨夜のことだ。

 クラブに響く重低音が胸を打つ。『Lumière』の発表会。トロフィーを胸に抱き、西宮家の領分ではない場所で、ようやく自分の居場所を勝ち取ったのだと実感していた。

 そこへ彼が現れた。招かれざる客。会場の賃料よりも高いスーツに身を包み、「潜在的な投資家」などと嘯いて。

「絶望の臭いがするぞ、彩羽」耳元で囁かれる。距離が近すぎる。熱い吐息が首筋にかかる。

「自由の香りよ、弥介」私は即座に言い返す。

「もっとも、あんたには理解できないでしょうけどね。あんたから漂うのは、成金趣味と空虚さだけだもの」

 それからはグラスを重ねるばかりだった。塩とライムの刺激。グラスをテーブルに叩きつけた時、暗く沈んだ彼の瞳。周囲の歓声。

 そして……。

 バルコニー。雨。彼がじりじりと距離を詰め、私は退かなかった。

 私は爪先立ちになり——。

 顔が火照る。「酔っ払ってたのよ」私は鋭く言い放ち、ベッドから這い出すと、シーツをまるでトーガのように体に巻き付ける。

「あれは間違いだった。安酒のせいで判断力が鈍っただけ」

「あれは『パトロン・プラチナ』だ」彼は訂正する。

「それに、『私が私でいられるのは、あんたの前だけ』なんて言ってた時は、間違いだなんて思ってるようには見えなかったけどな」

 空気が凍りつく。

 私はその場で立ち尽くす。片足だけが柔らかい絨毯を踏んでいる。

「そんなこと、言ってない」

「言ったさ」彼は声を潜める。嘲りは消え、低く危険な響きを帯びる。

「お前が俺にキスする直前にな」

「キスなんてしてない!」私は悲鳴に近い声を上げる。

「あんた——何か手を使ったんでしょ! あんたは捕食者よ、弥介。自分の思い通りにならないものを見つけると、壊さずにはいられないんだから!」

 彼が詰め寄ってくる。私は後ずさりし、ふくらはぎがベッドフレームに当たる。彼からはシダーウッドとレザーの香りがした——私の幼少期にまとわりついていた香り。私が決して手に入れられない全てを持っていた、あの少年の匂いだ。

「そうなのか?」彼は静かに問う。

「俺がお前を壊したのか?」

「寝言は寝て言って」私は彼を突き飛ばし、慌てて部屋を見回す。

「私のドレスは? もう帰る。こんなことは起きなかった。誰かに言ったら、社会的に抹殺してやるから。

『トキシック・ウェイスト』って名前の香水を作って、あんたの自我と同じくらい酷い臭いにして売り出すわよ」

「クローゼットだ」彼が指差す。

 私は勢いよく扉を開ける。

 そして、動きを止めた。

 私のエメラルドグリーンのシルクドレス——昨夜、間違いなく丸めて床に放り投げたはずのそれが——ハンガーに掛けられ、整然と収まっていた。

 アイロンが掛けられている。

 平らで、完璧。皺ひとつない。

 私はドレスを凝視し、それから彼を振り返る。

 彼は顔を背け、急に窓の外の景色に興味を持ったふりをしている。顎の筋肉が微かに動いた。

「あんた……」震える声が出る。

「あんたがアイロン掛けたの?」

「メイドが早く来たんだ」滑らかすぎる嘘だ。

「朝の六時に?」

「最高級のサービスなんでな」

 彼は嘘をついている。西宮弥介。女を使い捨てのナプキン程度にしか思っていないと噂される男が、一睡もせずに管家の娘の安物のシルクドレスにアイロンを掛け、皺ひとつなく仕上げたというのか。彼女が惨めな姿で帰らなくて済むように。

 叫び出したい気分だった。そのせいで、余計に彼が憎らしくなる。

 私はドレスをひったくる。

「後ろ向いて」

 彼は微動だにしない。

「全部見たぞ、彩羽。正直、昨夜の照明の方がもっと良かったな」

「向・い・て」

 彼は大げさに溜息をつき、退屈そうに肩をすくめると、ようやく背を向けた。

 私は記録的な速さで服を着たが、手は震えていた。逃げなきゃ。皮膚に染み付いた彼の匂いを、洗い流さなければ。

 ヒールを掴み、ドアへと大股で歩く。

「彩羽」

 冷たい金属のドアノブに手をかけたまま、私は立ち止まる。

「昨夜、もう一つ言ってたぞ」彼は言う。振り返らない。広い背中が緊張で強張っている。

「『あなたが憎い。あなたはいつも、私には価値がないと思わせるから』とな」

 心臓が早鐘を打ち、胸に空虚な痛みが走る。

 それは真実だった。二十年間抱えてきた、醜い古傷だ。

 私は笑いを絞り出す。壊れそうなほど脆い笑みだ。

「言ったでしょ、弥介? 私は酔ってたの。酔っ払いは馬鹿なことを言うものよ」

「そうか?」彼がついに振り返る。その瞳は深く、感情が読み取れない。

「俺には、お前が今までに言った中で一番正直な言葉に聞こえたが」

「地獄へ落ちなさい、弥介」

「オフィスで会おう、彩羽」

 私は力任せにドアを叩きつけた。

 迎えの車の後部座席に倒れ込む頃には、手の震えは止まっていた。だが、胸に空いた穴は少しも塞がらない。

 運転手がバックミラー越しに私を見る。

「散々な夜でしたか?」

 私は手のひらに爪を食い込ませる。鋭い痛みが走るまで。

「……ええ」息を吐き出す。

「ううん……いいえ。完璧だったわ」

次のチャプター