第1章 私生児
宴会場。
片瀬澄乃がシャンパンのグラスを握る指先は白くなり、ざわめく人波の向こう――談笑する貴婦人たちに囲まれた父・片瀬大介へと視線が吸い寄せられた。
かつては慕ってやまなかったその顔も、今では薄っぺらい仮面にしか見えない。母の葬儀から、まだ三か月。あの男は平然と大川沙織と片瀬結希の母娘を家へ連れ込み、堂々と「家族」を名乗らせた。
「澄乃、こんなところで何してるの? 村田社長がね、協業の話、あなたとしたいって」
甘ったるい声が香水の匂いをまとって絡みつく。澄乃はほとんど反射で背筋を強張らせた。
「触らないで。興味ない」
三つ年上の「お姉さん」。その正体は、父が外に作った私生児だ。
母が病床に伏していたころから、片瀬大介は浮気相手――結希の母である大川沙織を連れ、高級クラブへ出入りしていた。今ではその沙織が、母の遺した宝飾を身につけ、高価なドレスで屋敷を闊歩し、片瀬家の正妻として振る舞っている。
そして片瀬結希は、私生児から一転、片瀬家の「お嬢さま」になった。
結希の笑みは崩れない。莓色にきらめくカクテルを差し出し、やわらかく言う。
「そんな冷たくしないでよ。私たち、姉妹なんだから。ほら、これ……飲んでみて?」
グラスの縁のチェリーが、不気味な光を返した瞬間。澄乃の胃が、ぐらりと波打った。
忘れられるはずがない。母の臨終に際し、片瀬大介が医師に「金の無駄だろ」と苛立っていたことも。大川沙織が初めて玄関をくぐったとき、勝者の目で母を値踏みしたことも。
あの屑男と屑女、そして巣を奪った私生児。三人は彼女の心を幾度も抉り、血の穴だらけにした。
「……自分で飲めば」
半歩下がる。拒絶を隠しもしない目で見返した。
だが結希は見ていないふりをして、無理やりグラスを押しつけてくる。
「お姉ちゃんの顔、立ててよ。ほら、周り、見てる。姉妹仲が悪いって思われたくないでしょ?」
視線の先を追えば、確かに数人の目が、興味深げにこちらへ向けられていた。こういう連中は噂が大好物だ。ここで突っぱねれば、どんな下品な話にされるか分かったものじゃない。
迷いかけたそのとき、結希がさらに声を落とす。
「パパが言ってたの。姉妹でちゃんと『見せろ』って。こんなことで機嫌損ねさせたら、面倒だよ?」
胸の奥が、鋭く刺された。
分かっている。今の父の視界には、結希と沙織しかいない。少しでも逆らえば、待っているのは叱責と冷遇だ。
それに――片瀬大介は、母が命を削って築いた御華ファッションを握っている。まだ取り戻せていない。今ここで決裂するわけにはいかなかった。
澄乃はぎこちなく手を上げ、カクテルを受け取った。
「そう、それでいいの」
結希の笑みはさらに甘くなる。まるで、さっきまで脅していたのが別人だったみたいに。
澄乃は喉を潤す程度にひと口。苦い液体が喉を滑り落ち、妙な灼けるような感覚を残した。
――次の瞬間。
丹田から邪な熱が、火柱のように突き上げた。
澄乃は反射的に襟元を掴む。冷汗が一気に噴き、ドレスが肌に張り付いた。信じられない、という目で結希を見れば、相手の瞳に一瞬だけ、得意げな光が走る。氷の楔みたいに理性を貫いた。
「……あなた……」
この場で媚薬?
正気じゃない。
――父が黙認している?
結希はふらつく澄乃の身体を支え、吐き気がするほど優しい声で言った。
「大丈夫? 顔色悪いよ。休ませてあげる」
廊下を引きずられるうち、意識が滲んでいく。鼻先にまとわりつく香水の匂い――それは昔、大川沙織が母の病室へ踏み込んだときと同じだった。
「放して……」
歯を食いしばって抵抗するが、乱暴に突き飛ばされ、客室へ押し込まれる。
扉が閉まる「バタン」という音。直後、外で結希と男のひそひそ声がした。脂っこい笑い声が耳に絡み、胃が痙攣する。
身体の火が、ますます燃え上がる。澄乃はカーペットに崩れ落ち、屈辱の涙が冷汗と混じって頬を伝った。
片瀬大介の薄情も、結希の陰険も、この泥沼の家庭に囚われた自分自身も――全部が憎い。母の葬儀すら、あの狗男女に穢された。
「小美人ちゃん、待たせたなぁ」
耳障りな声。
澄乃が顔を上げると、ビール腹の男が立っていた。父の取引相手の岡野だ。以前の酒席でも、ねっとりした目で彼女を舐め回していた。指を擦り合わせながら近づく手元の金の指輪が、光を反射して不快に輝く。
「近寄るな!」
全身の力で叫び、爪をカーペットに立てた。
男はよろめくが、すぐに逆上して飛びかかってくる。
「何が清純ぶってんだ! 片瀬大介がオマエを俺に差し出したんだぞ! 怒らせたら片瀬家なんて今すぐ潰してやる!」
片瀬大介――。
やはり、父が許したのだ。
実の父親が、娘を火坑へ突き落とす。
澄乃はどこからか力が湧き、男の股間を思い切り蹴り上げた。男がうずくまり呻いた隙に、転げるようにして部屋を飛び出す。
触れさせない。絶対に、あんなものに。
裸足で走る。冷えた大理石が足裏を刺し、廊下のクリスタル照明が視界を揺らす。それでも止まれなかった。背後で罵声と重い足音が追いすがる。催促する太鼓みたいに神経を叩く。
「待て! 覚えてろ!」
体内の熱はなお暴れ、意識は途切れそうになる。限界寸前――前方の扉が突然開き、すらりと長身の男が足早に出ていった。扉は閉まりきらず、手のひらほどの隙間が残る。
澄乃は考えるより先に、泥鰌みたいに隙間へ滑り込んだ。反手で扉を閉め、手探りで鍵を回す。
「カチャ」
小さな音がして施錠が落ちた。
扉に背をつけた途端、外から脂ぎった息と怒声が聞こえる。
「くそっ、どこ行きやがった! 見つけたらベッドから降りられねえようにしてやる!」
身体が震えた。
このまま怒りに任せて、扉を破って入ってくるかもしれない。
窓の外へ目をやる。28階。逃げ場はない。
――ここで、運に縋るしかないの?
