第3章

三十分後。

七海は親友の小林玲奈の家に辿り着いた。

荷物を置くなり、玲奈は察したように口を尖らせる。

「……なに、風間社長とケンカ? 補償じゃなくて“やり直しの結婚式”の話してたじゃない。何をそんなに揉めるわけ」

七海は動きを止め、顔を上げて苦く笑った。

「結婚式……できないかも」

「は?」玲奈が眉を吊り上げる。

「どういうこと?」

七海は一連のことを手短に説明した。

話を聞き終えた玲奈は、袖をまくって今にも飛び出しそうな勢いになる。

「よし、私が行って——」

「玲奈」七海が慌てて腕を掴み、首を振った。

「やめて。行かないで」

玲奈は七海のやつれた顔を見て、目の縁を赤くする。

「……あんた、何のためにそこまで耐えたの」

「私、最初から反対だった。風間悠希がどれだけ良くても、あの人は植物状態だったんだよ?」

「なのにあんた、将来捨ててまで嫁いで、三年も尽くして。治った途端に浮気って……最初から死んでた方がマシだったわ」

責める言葉が胸に落ちるたび、七海の中に苦さがじわじわ広がっていく。

分かっていた。火の中に飛び込むみたいなものだと。

それでも忘れられなかった。

「迎えに行く。嫁にする」

あのときの風間悠希の顔も。

あの魔窟から逃げ出した夜、肩に掛けられた上着の温もりも。

必死に掴んだはずなのに、指の隙間から、全部こぼれ落ちた。

落ち込む七海に気づいた玲奈は、語気を少し和らげた。

「……いい。男なんて一人じゃない。そんなのに心削られなくていい」

そう言って七海の腕を引く。

「行くよ。今日は私が連れ出す。息抜きしよ」

七海は断ろうとしたが、玲奈は聞く耳を持たず、そのまま外へ引っ張り出した。

本当はバーに行くつもりだったらしい。けれど七海の拒絶が強くて、途中で会員制クラブへ変更になる。

「大丈夫。あっちでもホスト呼べるし」

玲奈は七海を上から下まで見て眉をしかめた。

「その格好、地味すぎ。着替えよ」

七海は唇を開きかけて、結局何も言わなかった。

反対する気力が、もう残っていない。

近くのデパートで、七海は赤いホルターネックのワンピースを選んだ。

身体に沿うライン。腰から広がる裾が歩くたびに揺れて、燃える薔薇みたいに視線をさらう。

玲奈の目がぱっと輝く。

「そうそう! それだよ。あんた、うちの学校の女神だったんだから!」

七海は口元だけで笑って、黙ったまま頷いた。

二人が向かったのは、陽城でも指折りの会員制クラブ。

金と権力のための場所で、サービスも設備も一級品だった。

入口を抜けながら玲奈が小声でぶつぶつ言う。

「高すぎ……最低10万って何……今回プロジェクト当たったから来れたけどさ……」

七海は笑って言った。

「今日は私が払うよ。玲奈は気にしないで」

七海は情報系の学科出身で、風間悠希の世話をしながらも、空いた時間に仕事を受けていた。小さな蓄えくらいはある。

「ダメ」玲奈は即答した。

「今日は私が奢るって決めたの。あんたは黙って楽しめばいい」

七海はそれ以上は争わず、頷いた。

二人で奥へ進んでいると、ある個室の前で会話が耳に刺さった。

「悠希って何考えてんだろ。七海みたいな田舎者と結婚式やり直すとか」

「誘拐された場所から戻ってきた女だろ? 俺なら恥ずかしくて無理。何人に抱かれてたか分かんねーし」

「でも顔はガチでいいよな。身体も良さそう。悠希が捨てたら俺、試してみたいわ」

「はは、わかる。嫁には無理でも遊ぶなら損ない」

「じゃあ悠希、得してんじゃね?」

玲奈が怒りで足を上げた、その瞬間。

七海が玲奈の腕を軽く制し——個室の扉を、ドンッと蹴り開けた。

腕を組み、ドア枠にもたれる。

照明に浮かぶ顔立ちは艶やかで、個室の男たちが一斉に息を呑んだ。

「……七海?」

反応の早い男が慌てて笑う。

「お、おお。今日はどうした? 珍しいな」

他の連中も立ち上がったが、空気は露骨に気まずい。

陰口と、本人に聞かれるのは別だ。七海はまだ風間悠希の妻で、結婚式も控えている。

七海は薄く笑った。

「来てみなきゃ分からないでしょ。皆さん、私のことそんなに嫌いだったんだね」

視線をゆっくり走らせて、続ける。

「風間悠希については……まあ私も損してない。顔も身体もいいし、目の前に置いとくだけで目の保養」

「同レベルのホストを外で指名したら、安くないもんね」

一拍置く。

「……ただ、残念だけど。彼、ダメなの」

「ダメ?」

男たちの目が丸くなる。

どの“ダメ”だ、と言いたげな顔。卑しい好奇心が、部屋中に漂った。

玲奈まで七海の袖を掴み、真顔で尋ねる。

「七海……風間悠希って、ほんとに……ダメ?」

七海だって知らない。

結婚して三年。肌を合わせることはおろか、手を繋ぐことさえ、口づけを交わしたことすらない。確かめようがない。

けれど今は、言ってやりたかった。

頷こうとした、その瞬間——背後から冷たい気配が刺さった。

振り向くと、話題の本人が立っていた。

風間悠希。顔色は最悪で、瞳の冷光が七海を切り裂きそうだった。

「……俺が、ダメだと?」

唇の端が歪む。歯の間から絞り出すような声。

七海の胸がひゅっと縮む。

それでも平然を装い、肩をすくめた。

「そうだよ。自分のことくらい自分が一番分かるでしょ。でも大丈夫。今は医療も進んでるし、なんとかなるよ」

そう言って玲奈の手を掴み、逃げるように踵を返す。

「じゃあね。皆さん、続けて」

玲奈はまだ野次馬心が残っていたが、七海の顔色に気づき、黙ってついてきた。

背後から、地獄の追い立てみたいな声が飛んでくる。

「説明もせずに、どこへ行く」

七海の頭皮がぞわりと粟立つ。

走ろうとした瞬間、手首を強く引かれた。

視界がぐるりと回り、次の瞬間には肩に担がれていた。

風間悠希がそのまま外へ運んでいく。

「風間悠希、何するの!」七海が必死に叫ぶ。

風間悠希は淡々と言った。

「俺のせいで誤解したって言うなら、今日は帰って話し合おう」

低い声が、冷たく落ちる。

「俺がダメか、ダメじゃないか」

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