第4章 彼は彼女に対して衝動を抱いている
七海はすぐさま激しくもがいた。
だが男女の体力差は残酷で、七海の力では風間悠希の腕を揺さぶることすらできない。
周囲の視線を浴びながら、七海はそのままクラブの外へ連れ出された。
道中の揺れで胃の奥が何度もせり上がり、吐き気が込み上げる。
辿り着いたのは地下駐車場だった。
ドアが開いた瞬間、七海は後部座席へ乱暴に放り投げられる。目の前のぐらつきが引くより早く、侵略的な熱を孕んだ体が覆いかぶさってきた。
「俺がダメ……なんだって?」
男の声は低く、刃みたいな危うさを帯びている。
七海は手を突っぱねるように彼の胸に当て、眉を寄せて吐き捨てた。
「風間悠希、あんた……狂ってるの?」
抱き込まれるような体勢のせいで、彼の匂いが鼻先にまとわりつく。息苦しいほど不快だった。
七海の拒絶を読み取ったのか、風間悠希の表情に一瞬だけ、ひびが走る。
次の瞬間、彼はベルトを外し、七海の手首を縛って頭上へ固定した。身をかがめ、一気に距離を詰める。
「……少し、な」
こんな状況で、衝動に駆られる自分が。
胸の奥で燥いだ熱が吠える。壊して、妻としての義務を果たさせたい――そんな醜い欲が。
「七海。忘れるな。俺たちは夫婦だ。俺が何をしても、当然だろ」
言い終えると、片手が空く。
ジッ――ファスナーが下りる音。
冗談じゃない。七海の背筋が凍り、冷たく言い放つ。
「そんなことして……水原美月が怒らないとでも?」
いつもなら、彼はその名だけで止まったはずだ。けれど今回は止まらない。
頭の中にあるのは、七海が見せたあの小馬鹿にした顔と、軽く投げた一言――『彼はダメ』。
空気が合ったのか、負けず嫌いの芯を煽られたのか。
とにかく、今は七海を放したくなかった。身体が、彼女を求めて叫んでいる。
そのとき、不意にスマホの着信音が車内に響いた。
風間悠希の動きが、音を聞き分けた瞬間、ぴたりと止まる。
甘ったるい女の声がスピーカー越しに弾んだ。
「悠希、早く出てよ」
水原美月専用の着信音。
――冷水をぶちまけられたみたいに、風間悠希の熱がすっと消えた。
彼は体を起こし、七海の手首を縛っていたベルトを外す。七海も身を起こし、乱れた上着を直した。耳障りな着信音が、この結婚が冗談だと告げているみたいだった。
一分もしないうちに、風間悠希は何事もなかったように身なりを整える。さっきまでの獣じみた気配は跡形もない。
七海は口元を歪め、自嘲の息を吐いた。
――この痛みを、どう言えばいい。
三年かけて溶かそうとした自分の真心は、水原美月が指先ひとつ振るだけで持っていってしまう。
「……やっぱり」
七海が呟くと、風間悠希の手が止まり、こちらを見た。
七海は皮肉を込めて笑う。
「やっぱり、あんた……ダメだよ」
尖った言葉で、痛みに鈍く脈打つ心臓を隠す。
風間悠希の顔色が沈む。
「黙れ」
苛立ちの矛先がどこに向いているのか――七海の言葉か、それとも美月の電話を邪魔されたことか。七海にはもうどうでもよかった。
七海が黙って見つめ返すのを見て、風間悠希は眉をひそめたまま通話を取る。
「……もしもし」
受話口から、水原美月の弾んだ声。
「悠希、今どこ? 会いに行っていい? ねえ、いいでしょ?」
その声が聞こえた途端、風間悠希の目尻がふっと緩む。
七海は、それを見ただけで胸の奥が完全に冷え切った。
――優しくできないんじゃない。優しさを分けてもらえないだけ。
風間悠希は答える。
「いい。来い。ジェッツ・クラブの地下駐車場だ」
電話を切る。
十分もしないうちに、水原美月が車のそばに現れた。
紫系のレーシングスーツ。だが胸元は深く開き、少し俯けば肌が覗く。ぴったりした生地が、彼女の体をいやらしいほど際立たせている。
彼女は七海の存在を見落としたふりをして、風間悠希の腕に絡みつき、甘えるように言った。
「悠希兄。練習に行きたいのに、うちの運転手がお休みでさ。送ってくれない?」
わざと柔らかくした声。断れる男がいるはずもない。
七海がそう思った瞬間、風間悠希はあっさり言った。
「いいよ」
……そうだよね。断るわけがない。
七海が嘲るように笑うと、車外で水原美月は嬉しそうに身を寄せ、胸元を彼の腕に押し当てる。
風間悠希は表情ひとつ変えず、穏やかに促した。
「ほら、乗れ」
水原美月は頷き、助手席へ滑り込む。シートベルトを締め、運転席の風間悠希へ顔を向けたそのとき――後部座席の七海が視界に入り、声を上げた。
「……姉ちゃん?」
驚いたように目を見開いたまま、しばらく固まる。
「なんで、ここに……?」
七海は黙って見つめた。どこまで芝居を続けるのか、見届けるつもりだった。
車の外にいたときから、彼女の視線はずっと車内を探っていた。電話から到着までたった十分。最初から風間悠希の動きを把握していなければ、こんな速度で来られるはずがない。
七海は薄く嘲笑った。
「私がいたら邪魔?」
少し間を置き、言い聞かせるように続ける。
「でも、さっき抱き合ってたのは私の夫だよ。あなたの義兄」
そんな格好でレースの練習なんて、口実でしかない。狙いが風間悠希だと、七海にだって分かる。
水原美月の笑みが、ぴたりと固まった。
風間悠希はシートベルトを締め終えたまま眉を寄せる。
「そんなことを言ってどうする」
七海は鼻で笑う。
「事実でしょ?」
恥じるべきは七海じゃない。
水原美月は膝の上で拳を握りしめ、長い爪を食い込ませた。痛みすら感じていないみたいに。
やがて顔を上げ、さっきまでの陽だまりみたいな笑顔を作り直す。
「姉ちゃん、考えすぎ。悠希兄に用があったの、ちゃんとした用事だよ」
そして小さく息を吐いた。
「私は姉ちゃんみたいに運が良くないの。悠希兄に嫁いで、家でご飯作ったり、暇があれば美容やネイル。ほかのことは何もしなくていい……」
「私みたいに、何でも自分でやらなきゃいけない人とは違うんだもん」
