第4章 押しかけて騒ぎを起こす

都心のカフェ。

窓際のボックス席に腰を下ろした温井有紗は、さんさんと差し込む陽射しの中にいてなお、目の奥の冷えを少しも溶かせずにいた。

指先にはスマートフォン。画面に映っているのは、私立探偵から送られてきた一枚の写真。

そこには、清水若菜と名取賢次が時間差で病院へ入っていく姿が写っていた。

待ち合わせていたわけではないにせよ、二人が顔を合わせたのは間違いない。

その事実を思うだけで、温井有紗の指に力がこもる。

ぎり、ぎり、と。今にも画面を握り潰しそうなほどに。

自分が戻ってきたのだから、清水若菜も空気を読んで身を引く。もう二度と名取賢次と自分の前に現れない。

そう思っていた。

なのに、あの女は消えない。

――それどころか、あの死に損ないまでいる。

名取誠彦の冷え切った態度を思い出すだけで、腹の底が煮えくり返った。

昔、名取賢次に取り入った頃から、名取誠彦は彼女をよく思っていなかった。何かにつけて嫌味を言い、腹に一物ある女だ、賢次には釣り合わないと決めつけてきた。

もっとも、そのあと自分が逃げ出したのは事実だ。

けれど、誰だって少しでもいい暮らしを望むものだろう。

あの頃の名取賢次は、自分ひとりの身さえ守れない有様だった。どうして一緒に泥舟へ沈まなければならないのか。

でも、今は違う。

名取賢次は成功した。なら、その隣に立つのは自分であるべきだ。

たかが、くたばり損ないの老人ひとり。

何様のつもりなの。

「クソジジイ……清水若菜とずいぶん仲がいいみたいね。だったら、こっちにも考えがあるわ……」

低く呟き、温井有紗はコーヒーカップを持ち上げてひと口含む。

その瞳の底を、ぞっとするような残酷さがかすめた。

翌朝。

まだ朝早い時間だというのに、温井有紗は白いワンピースに身を包み、柔らかな化粧を完璧に整えて、入院棟へ現れた。後ろにはカメラを担いだ撮影スタッフが二人。まるで最初から人目を集めるつもりで来たかのような、堂々たる足取りだった。

彼女は終始にこやかに周囲へ会釈し、誰に対しても感じよく振る舞う。

一見すれば、品のいい優しい女性にしか見えない。

やがて名取誠彦の病室の前へたどり着くと、温井有紗は小さく息を吸い込み、そのまま扉を押し開けた。

病床では名取誠彦が新聞を広げていた。顔を上げ、温井有紗の姿を認める。さらに、その後ろに続くカメラの存在を見た瞬間、表情がさっと険しくなった。

「温井有紗? 何をしに来た」

温井有紗はにっこりと笑い、声を甘くする。

「名取おじい様、お見舞いに来たんです」

誠彦の視線が背後のスタッフへ突き刺さっているのを見ても、温井有紗の笑みは崩れない。むしろいっそう穏やかさを帯び、その奥にだけ毒が沈んだ。

「それと、今ちょうど取材を受けていて、日常の様子を少し撮っていただいてるんです。どうぞお気になさらず、いつも通りになさってください」

「見舞いなど要らん。そいつらを連れて、今すぐ出ていけ!」

名取誠彦は胸を詰まらせ、吐き捨てるように怒鳴った。ようやく快方へ向かっていた身だ。こんな刺激に耐えられる状態ではない。興奮したせいで呼吸まで荒くなっていく。

だが温井有紗は、まるで気づいていないふりをした。

たちまち目を潤ませ、ぽろりと涙をこぼす。

「名取おじい様……まだ私のこと、許せないんですよね。当時、私が離れたことを……でも、あのときは本当に事情があったんです。賢次を見捨てたかったわけじゃないんです……」

しゃくり上げながら、さらに続ける。

「どうしても許していただけないなら……私、ここでお詫びします。土下座でも何でもしますから……」

そう言って、今にも膝をつこうとする。

カメラはその一部始終を逃すまいと、二人へ向けられたままだった。

「出ていけ……今すぐ……」

名取誠彦は怒りに身体を震わせ、みるみる顔色を失っていく。胸を押さえ、大きく息を吸おうとしても、うまく吸えない。言葉は途切れ途切れになり、もはや一文として成り立たなかった。

その時だった。

病室の扉が勢いよく開いた。

買ったばかりの粥の袋を手にした清水若菜が飛び込んでくる。目の前の光景をひと目見た瞬間、その表情がすっと沈んだ。

「温井有紗、何をしてるんですか!」

若菜は迷いなく病床へ駆け寄り、温井有紗を押しのけるようにして名取誠彦の身体を支えた。そして胸元の急所を的確に押さえ、応急処置を始める。

「おじい様、落ち着いてください。ゆっくり、息を吸って――そう、そのままです」

声は驚くほど落ち着いていた。ひとつひとつ、呼吸を導くように。

押しのけられた温井有紗は、たたらを踏んでよろめく。あやうく倒れそうになったその顔から、さっきまでのか弱さは一瞬で消え失せ、代わりに濃い憎悪が浮かび上がった。

だが若菜は彼女など見もしない。

名取誠彦の容体だけに意識を集中させ、医師と看護師が駆け込んでくるまで、ひたすら気を配り続けた。

やがて応急処置が功を奏し、ひとまず状態が安定したのを確認して、若菜はようやく息をつく。

次の瞬間、くるりと振り返ると、温井有紗の手首を掴んだ。

そのまま病室の外の廊下へ強く引きずり出す。

パァン!

温井有紗が何か言うより早く、若菜の平手が容赦なく頬を打った。

温井有紗は打たれた衝撃に目を見開き、頬を押さえたまま呆然とする。すぐに目に涙をため、信じられないとでも言いたげに若菜を見た。

「清水秘書……どうして私を叩くの?」

「どうして、ですって?」

若菜は冷えた笑みを浮かべる。

「おじい様は、ようやく持ち直したところなんです。刺激は厳禁。それを記者まで連れてきて騒ぎ立てて、わざと怒らせて……何を考えてるんですか」

その声は低く、それでいてはっきりしていた。

「温井有紗。あなたが見世物にしたいなら、こちらも黙っているつもりはありません。昔あなたがやったこと、全部明るみにしてもいい。皆さんに、あなたの本性をちゃんと見てもらいましょうか」

その一言に、温井有紗の顔色がすっと白くなる。

視線が泳いだ。だが、それもほんの一瞬。すぐにまた瞳を潤ませ、か弱い女の仮面を被り直す。

「私は……あの頃、本当に仕方なかったの。みなさんが思ってるようなことじゃないわ。そんなに取り乱して、どうしたの?」

そして、わざとらしいほどゆっくり首を傾げる。

「もしかして……清水秘書、賢次のことが好きなんじゃない? 私が戻ってきたから、嫉妬してるの?」

わざと声量を上げ、通るように言う。

人目を集めるためなのは明らかだった。

その直後、若菜の肩越しに何かを見つけたのか、温井有紗の目がきらりと光る。

すぐさま若菜の手を両手で掴み、今にも泣き出しそうな声で訴えた。

「清水秘書、あなたが賢次を好きなのはわかったから……もうやめましょう? お願い――あっ!」

悲鳴が廊下に響いた。

次の瞬間、温井有紗の身体がぐらりと崩れ、そのまま床へ倒れ込むように見えた。

若菜は眉をひそめる。

今度は何の芝居か――そう思った、その時。

背後から、切迫した声が飛んだ。

「有紗!」

長身の影が駆け込んできて、倒れかけた温井有紗を抱き留める。

名取賢次だった。

腕の中の彼女に怪我がないと確かめるや否や、賢次は若菜を振り返る。

その眼差しには、露骨な非難が宿っていた。

「お前、今、何をした」

若菜が答えるより早く、温井有紗が賢次の胸にもたれかかり、赤くなった目で首を振る。

「賢次、私は大丈夫……清水秘書のせいじゃないの。きっと、少し気が立ってただけ……」

そう言いながら、その声音も表情も、何もかもが「自分は被害者だ」と訴えていた。

名取賢次は若菜をきつく睨みつけ、凍えるような声で言い放つ。

「今すぐ有紗に謝れ」

ぴたりと寄り添う二人の姿が、若菜の胸を底冷えさせた。

「謝りません」

ぎゅっと拳を握りしめ、若菜はきっぱりと言い返す。

「温井さんは病院で騒ぎを起こして、おじい様の静養を妨げたんです。どうして私が謝るんですか。さっきの転び方だって、全部演技でしょう」

「演技かどうかくらい、見ればわかる」

賢次はまるで耳を貸さない。むしろ怒気を深めていく。

「若菜、自分の立場を弁えろ。お前はただの秘書だ。俺の婚約者に無礼を働いておいて、何を正当化するつもりだ。謝れ」

その言葉に、温井有紗の唇の端が、ごくわずかに吊り上がった。

「賢次、もういいの。私、清水秘書を責めるつもりなんてないわ。だって、この人があなたを好きだから私にきつく当たるのも、わからなくはないもの。私のせいで喧嘩しないで……」

もっともらしい声。

けれど、その一言一言が若菜を追い詰めるためのものだった。

騒ぎを聞きつけて、患者や付き添いの家族が次々と足を止める。

あっという間に人だかりができ、視線とひそひそ声が若菜へ突き刺さった。

「きれいな顔してるのに、不倫相手になろうとして殴るなんて最悪ね」

「婚約者のほうはあんなに大人の対応してるのに、あの子しつこすぎない?」

「玉の輿狙いで必死なんでしょ」

ひとつひとつの囁きが、刃みたいに若菜の耳へ刺さる。

顔色が、すっと白くなった。

無意識に薬指をなぞる。そこに残る指輪の痕だけが、かつて確かに妻だった証だ。

なのに今、夫は別の女を抱き寄せ、その目に映る自分には警戒しかない。

若菜の口元に、乾いた笑みが浮かぶ。

不倫相手――。

本当に、その通りかもしれない。

夫に妻として認められない自分など、都合の悪い第三者と何が違うのだろう。

その時だった。

病室の入口から、怒気を含んだ重い声が響いた。

「ふざけた真似をするな!」

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