紹介
昼は秘書、夜は妻。指輪も、式も、誰からの承認もなかった。
破産寸前だった彼の会社を救うためだけに、私は自分の医学のキャリアさえ捨てたのに。
そんな時、彼女が帰ってきた。彼の初恋の人が。
彼はよりによって私の目の前で、祝賀会の席で彼女を婚約者だと発表したのだ。
彼から突きつけられた離婚届。私はただ、サインした。
だけど、彼は何も知らない。
私がかつて、医学界のレジェンドに認められた筆頭弟子だったことも。
彼が見つけたあの秘密のデッサン――他の男が描いたと勘違いしているあれが、本当は彼自身を描いたものだということも。
自分が捨てたこの女が、やがて手の届かない高嶺の花になることさえも、彼はまだ知らない。
さあ、ここからは私のターンだ。
チャプター 1
今日は名取賢次の上場祝いの席だった。清水若菜は朝から個室を走り回り、彼のためにちょっとしたサプライズまで用意していた。
傍らで秘書の小林唯が、しみじみと言う。
「若菜さん、名取社長の秘書を三年も務めて、ずっと真面目に頑張ってきたじゃないですか。会社も上場したんですし……そろそろ、お二人のことも公にしていい頃じゃないですか?」
清水若菜は目を伏せ、何もない薬指へ視線を落とした。そこには本来、ダイヤの指輪があるはずだった。けれど今朝、わざと外してきたのだ。
三年前。名取賢次の会社は資金繰りが尽きかけ、倒産寸前だった。若菜は海外留学の機会を投げ捨て、なりふり構わず彼のそばに残った。秘書となって毎日深夜まで働き、胃から出血するほど身体を削っても、彼を窮地から救うために踏ん張り続けた。
その後、名取賢次は彼女にプロポーズした。若菜はうれしさのあまり、涙が止まらなかった。
彼の仕事に差し障りが出ないよう、二人は結婚を伏せた。式は挙げず、あるのは簡素な婚姻届の証明と、ひとつのダイヤの指輪だけ。それでも清水若菜は十分に幸せだった。
とはいえ、会社の人間も鈍くはない。二人の間にただならぬものがあると、とうに気づいている。
会社が上場した今こそ、関係を公表する時だ。若菜も秘書を辞め、名取夫人として彼を支えていける。
「若菜さん?」小林唯がそっと肩を押す。「何、考えてるんです?」
清水若菜ははっとして、淡く笑った。
「なんでもない。飲み物のリスト、確認してくるね。名取社長、もうすぐ着くはずだから」
立ち上がろうとした、その時だった。
個室の扉が不意に開いた。
入ってきたのは名取賢次。濃いグレーのスーツを隙なく着こなし、長身で、立ち姿はすっと伸びている。目鼻立ちは鋭く、気配はひやりと冷たい。上流階級の娘たちが理想の結婚相手として思い描く、そのもののような男だった。
清水若菜は口元をほころばせ、迎えに出ようとした。
だが――その背後に、女の姿があった。
白いワンピースをまとい、化粧は完璧。柔らかく上品な微笑みを浮かべた女。
その女は、名取賢次の腕に自然にしがみついていた。二人はひどく親しげに見えた。
清水若菜の足が止まる。個室の空気も一瞬で静まり返った。
同僚たちが顔を見合わせ、ひそひそと尋ねる。
「名取社長……その方は……?」
名取賢次は一度だけ清水若菜へ視線を向け、すぐに引いた。淡々と口を開く。
「正式に紹介する。こちらは俺の婚約者、温井有紗だ」
清水若菜はその場で固まった。
次の瞬間、耳の奥でぶうんと鈍い音が鳴り、頭の中が真っ白になる。
温井有紗は落ち着いた所作で皆に挨拶し、場をさらりとまとめていく。若菜の身体は小刻みに震え、指先からすっと熱が引いていった。
温井有紗――名取賢次の初恋の相手。
三年前、彼の会社が資金ショートを起こして倒れかけた、まさにその時。彼女は別れを告げ、そのまま海外へ飛んだ。
サプライズのはずだった。なのに返ってきたのは悪夢だった。
清水若菜が積み重ねてきた三年は、結局、他の女のための土台でしかなかったのだ。
「名取社長、隠すのうまいですねえ!」
誰かが囃す。
「いつの間に、こんな綺麗な婚約者がいたんですか?」
名取賢次は答えなかった。ただ少しだけ顔を傾け、隣の温井有紗を見る。
その眼差しには、清水若菜が一度も向けられたことのない柔らかさがあった。
温井有紗は唇を軽く結び、やさしく笑う。
「困らせないでください。私たちも、決まったばかりなんです」
清水若菜は指先に力を込めた。手にしていたドリンク表が、くしゃりと音を立てて歪む。
「若菜さん、大丈夫ですか……?」小林唯が気遣わしげに覗き込む。
「大丈夫」清水若菜は首を振り、声の震えを押し殺した。
深く息を吸い、表情を整える。そして名取賢次のほうへ歩き出した、その時――温井有紗が振り向いた。若菜を見つけると、笑みを浮かべて近づいてくる。
「あなたが清水秘書ね? 賢次からよく聞いてたわ。この三年、本当にお疲れさま。会社をここまできちんと回してくれて」
清水若菜は口元だけで笑った。
「温井さん、もったいないお言葉です。仕事ですから」
「仕事だなんて」温井有紗はまた名取賢次の腕に手を回す。「賢次、清水秘書は昇給させないと。こんなに優秀な秘書、誰かに取られたら困るでしょう?」
名取賢次は清水若菜をじっと見て、短く頷いた。
「……ああ」
清水若菜はその視線を避けた。俯いた拍子に、どうしても目の奥が熱くなる。
「料理の準備、見てきます」
適当な口実だけを残し、彼女は背を向けた。
扉の近くまで来たところで、背後から温井有紗の声が届く。
「賢次、清水秘書って綺麗だし仕事もできるのに。どうしてあの時、追わなかったの?」
名取賢次が何と答えたのか、清水若菜は聞かなかった。――聞けなかった。
上場祝いの宴そのものは、滞りなく進んだ。
温井有紗は終始、彼の隣に立っていた。品のいい笑みを浮かべたまま、まるで最初からその席の「主役」であるかのように。
清水若菜は隅の席でシャンパンを手にし、並んで立つ二人を見つめた。絵になるほどに似合っている。胸の奥が、じわじわと冷えていく。
ふいに、温井有紗がグラスを持ってこちらへ歩いてきた。
「清水秘書」
彼女は向かいに腰を下ろし、にこやかに覗き込む。
「どうして一人でこんなところにいるの? みんなと一緒にお祝いしないの?」
清水若菜は目を上げた。
「賑やかなの、あまり得意じゃないんです」
「そうなの」温井有紗は一口だけ飲み、何気ない顔で続ける。
「清水秘書って、賢次のそばに三年いたんでしょう? きっと彼のこと、よく知ってるわよね?」
清水若菜は黙ったまま。
温井有紗は笑みを深めた。
「じゃあ、私のことも聞いてるはずよね? 私たち、大学の頃から付き合ってたの。彼、言ってたわ。ずっと私を忘れられなかったって」
その目には、わずかな挑発が滲んでいた。
清水若菜は眉を寄せ、それでもどこか可笑しくなった。
――縄張りの宣言でもしに来たのだろうか。
「……聞いていません」
淡々と答える。
「名取社長は、私に私事を話しませんから」
温井有紗はますます楽しそうに笑った。
「じゃあ今度、時間がある時に一緒に食事でもしましょう。ゆっくりお話ししたいわ」
「ええ」清水若菜は立ち上がる。「温井さん、ごゆっくり。私はデザートの確認がありますので」
背を向けてその場を離れた。廊下の突き当たりまで行ってようやく立ち止まり、壁に背中を預ける。
全身の力がするすると抜けた。
胸の奥に何かが詰まっているみたいで、息ができない。苦しい。
宴が終わる前に、清水若菜は先に帰った。
家に戻るとソファへ沈み込み、そのまま闇の中で身じろぎひとつしない。
どれくらい時間が経ったのか。
かちゃり、と鍵の回る音がして、次いでリビングがぱっと明るく染まった。
玄関に立っていたのは名取賢次だった。ソファに座る彼女を見て、一瞬だけ動きを止め、眉をひそめる。
「なんで電気をつけない」
清水若菜は顔を上げ、赤く腫れた目で彼を見た。
「あなたに婚約者がいるなんて、どうして私は知らなかったの?」
名取賢次の動きがぴたりと止まる。
しばしの沈黙の後、掠れた声が落ちた。
「若菜……離婚しよう」
清水若菜は息を呑んだ。
「お前が俺に嫁いだのは、もともと祖父の願いを叶えるためだっただろ」
名取賢次の声は低く沈んでいる。
「今は祖父の容体も落ち着いた。お前が無理して俺のそばにいる必要はない」
最新チャプター
#120 第120章 誤解
最終更新: 9/2/2026#119 第119章 わざと誘惑する
最終更新: 9/2/2026#118 第118章 彼らはベッドを共にした?
最終更新: 9/2/2026#117 第117章 彼の不安感
最終更新: 9/2/2026#116 第116章 彼女が持つ資質
最終更新: 9/2/2026#115 第115章 彼女を殴ったのは誰だ?
最終更新: 9/2/2026#114 第114章 これが差だ
最終更新: 9/2/2026#113 第113章 医学部に合格した?
最終更新: 9/2/2026#112 第112章 愛してる
最終更新: 9/2/2026#111 第111章 彼女への信頼
最終更新: 9/2/2026
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十年ものあいだ、私は幽鬼のようにこの豪邸に閉じ込められ、身を削って家計を支え、彼の吐くその場しのぎの嘘を飲み込み、彼が一片の心も寄せたことのない結婚生活を守り続けてきた。彼は確信していたはずだ、私が逃げ出せるはずがないと。母の癌治療費は、すべて彼の施しで成り立っていたのだから。
それは間違いじゃない。たしかに、金は必要だった。
でも――私はもう、残りの人生すべてを、彼が誰かを愛するのを見て過ごすために生きたくはない。
離婚届は、もうテーブルの上にある。今度こそ、私は懇願しない。縋りついたりもしない。
私が選ぶのは、私自身だ。
全能令嬢の帰還、家族が倒産?
父は冤罪で獄中にあり、母は病に伏せっている。
六人の兄たちも、ある者は身体に障がいを負い、ある者は無気力に沈んでいた。
そんな折、家に潜り込んでいた偽令嬢は状況を見るや否や一家を見捨てて姿を消し、さらに屋敷までも奪い取ろうとしていた。
世間は夏川家を「落ち目の負け犬」と嘲笑い、皆がこぞって踏みにじる。
紅蓮が静かに一声を発すれば、暗部より無数の異能の士たちが姿を現し、形勢は一瞬にして逆転する。
父は無実のまま出所し、母は健康を取り戻し、廃人同然だった長兄は再び己の足で歩き出し、残る五人の兄たちもまた紅蓮の導きによって各々の才覚を花開かせ、やがて各界を牽引する大物へと成り上がっていく。
しかし、そんな彼女を指さして嘲る者がいる。
「夏川紅蓮は地味で野暮ったい田舎者だ」と。
何を隠そう、彼女は無数の隠された顔を持つ存在。
神医の令嬢も彼女なら、国画の大家も彼女。
伝説のハッカーも彼女なら、正体不明の謎の女優も彼女。
そして、暗部を統べる首領さえも——彼女なのだ。
そんな折、頂点に君臨する名門の若様が、彼女をそっと腕のなかに抱き寄せた。
「誰が彼女を田舎くさい地味女だと言った? 彼女こそ、俺・諏訪淳行の婚約者だ」
紅蓮が流し目をひとつ送る。
「婚約、破棄しなくていいの?」
「しない」
彼が長いあいだ追い求めてきた決して手の届かない高嶺の花こそが、いま腕のなかにいる婚約者なのだ。
解消などありえない——この婚約は、死んでも解消しない。
私が去った日
けれど最後に彼が選んだのは、私ではなく、彼の初恋の女性だった。
夫は、私の心を深く傷つけただけではない。あの女が私の大切なジュエリーデザインを盗むことを許し、さらには実の息子までも操って、私を「怪物」だと思わせた。
嘘で塗り固められた結婚生活の中で、私は少しずつ自分を失っていった。
息が詰まるような日々。愛されていると思い込んでいた時間。すべてが偽りだった。
けれど、彼らはひとつだけ間違えた。
私を、もう戻れないところまで追い詰めたこと。
私が去ると決めたあの日。
私は、最低な夫も、母親への感謝を忘れた息子も、そして彼らによって壊された過去の自分も、すべて置き去りにした。
親友の支え。そして、私の本当の価値を見抜き、才能を認めてくれたある若き実業家との出会い。
その温かな手によって、私はもう一度、自分自身を取り戻した。
失った誇りを取り戻し、眠っていた才能を開花させ、世界へ羽ばたくデザイナーとして新たな人生を歩み始めた。
今、私の作品は世界の舞台で輝いている。
一方で、かつて私を捨てた男は、跪いて許しを乞う。
「戻ってきてくれ」と。
けれど、もう遅い。
私が去ったあの日こそが、私が本当の自分を取り戻した日。
もう二度と、過去には戻らない。













