第6章 彼女の知られざるもう一つの顔

千野教授はデスクの向こうで腕を組み、眉間に深い皺を刻んだまま、ふうっと息を吐いた。

「若菜。反対したいわけじゃない。だが、この手術はリスクが大きすぎる。成功率も高くない。患者の命を賭けにするわけにはいかん」

言葉を切り、清水若菜の青白く削げた頬を見やる。声に、かすかな痛みが滲んだ。

「それ以上に――私は嫌なんだ。お前が名取のあいつのため、名取家のために、私のところへ頭を下げに来るのがな。医学の道を捨て、三年も隠して結婚し、身を粉にして働いた。で、何を手に入れた?」

「若菜。もう三年だ。まだあいつのために犠牲になるつもりか」

「先生……私は、彼のためじゃありません」若菜は服の裾を握り締めた。指先が白くなる。目元がじわりと赤く滲んだ。

喉の奥に綿でも詰まったみたいで、声がうまく出ない。罪悪感で、千野教授の目をまともに見られなかった。

「……もう、離れるって決めました!」

吸い込むように言い切ってから、必死に続ける。

「でも先生、名取おじい様は違います。あの方は、本当に私によくしてくれました。祖父が亡くなってから……私を本気で気にかけて、面倒を見てくれた年上は、あの方だけなんです」

「誰の祖父かなんて関係ありません。私は、見殺しにできない。絶対に……できません」

それは名取賢次のためでも、名取家の肩書きのためでもない。若菜は名取誠彦を、もう家族だと思っていた。

千野教授は長いあいだ若菜を見つめた。

この学生を、彼はよく知っている。頑固で負けず嫌いだが、嘘はつかない。

沈黙ののち、千野教授はもう一度、重く息を吐いた。そして、ゆっくり頷く。

「……いい。引き受ける」

「ただし忘れるな。危険な手術だ。最悪の事態も想定しておけ」

「ありがとうございます、先生……!」

若菜はぼろりと涙を落とし、次の瞬間には、泣き笑いの顔になっていた。胸の奥に詰まっていたものが、ようやくほどける。

こうしてその日から、清水若菜は病院に張りついた。名取誠彦の身の回りを世話し、千野教授の術前準備にも付き添う。

仕事はすでに辞めていた。縛るものは何もない。大切な人のそばにいられるだけで、日々は静かに――どこか穏やかに過ぎていった。

だが、ある深夜。

名取誠彦の容体が突然悪化した。心拍数が急激に落ち込み、危険域へ滑り落ちる。

若菜の顔色がさっと変わり、走った。千野教授を呼びに。

検査を終えた千野教授が、硬い声で言い切る。

「今すぐ手術だ。もう待てない」

ほどなくして、若菜は千野教授とともに手術室へ入った。

……

同じ頃、名取賢次のもとに病院から連絡が入る。名取誠彦が危篤だと。

賢次は車を飛ばした。隣には温井有紗がいる。

二人が駆け込んだ時、手術灯はすでに点っていた。――手術中。

深夜の廊下は、しんと静まり返り、やけに広く感じる。

賢次は周囲を見回し、清水若菜の姿がないことに眉をひそめた。祖父が危ないのに、祖父がいちばん可愛がる若菜が、いない。

スマホを取り出し、若菜にかける。

――出ない。

温井有紗は画面をちらりと見て、目の奥に影を落とした。

「賢次。清水秘書って、いつも名取おじい様に付き添ってるって言ってたよね。でも、こんな大事な時にいないなんて……普段の優しさも、全部演技だったんじゃない?」

「名取おじい様に何かあったから、怖くて隠れたんだよ」

「……彼女は、そんな人じゃない」賢次は反射的に言い返した。

有紗は肩をすくめ、わざとらしく首を傾げる。

「じゃあ、どこ行ったんだろ。変だね」

その一言が、賢次の胸に小さな棘を残した。顔が陰り、不快がじわりと積もる。

しばらくして、主治医が手術室側から歩いてきた。

賢次はすぐ詰め寄る。

「先生、祖父の状態は。執刀は誰です?」

主治医は淡々と答える。

「ご安心ください。千野教授と清水さんが中で対応しています。お二人がいれば問題ないでしょう」

「清水さん……?」賢次が固まる。「それは、清水若菜のことか? どうして彼女が手術室に――」

温井有紗もすぐ口を挟んだ。心配そうな顔を作りながら。

「先生、どうして彼女を入れたんですか? 命で遊ぶつもりですか。万が一、名取おじい様に何かあったら……責任、取れるんですか?」

主治医の表情が、一瞬で硬くなる。

以前、若菜に投薬ミスを指摘され、面子を潰された。その苦い記憶が、胸の底でうずく。だが、相手は千野教授の人間だ。口を出せる立場ではない。

それでも――この女に言われる筋合いは、どこにもない。

主治医は冷ややかに笑った。

「あなたに言われる筋合いはありません」

「清水さんが手術室に入れない? あの日、急性心不全の時に清水さんが投薬の誤りを指摘しなければ、患者さんはとっくに危なかった」

「それに清水さんは、千野教授の愛弟子です。教授が簡単に弟子を取らないのはご存じでしょう。どれほどの才能か、察しがつくはずです」

「今の手術室では、清水さんのほうが私よりも千野教授を補佐する資格があります。あなたに何がわかるんです?」

言い切って、主治医はさらに冷たく続けた。

「それに――毎日病院にいたのは清水さんです。あなたは、どこにいました?」

主治医はそれ以上取り合わず、踵を返して去っていった。

賢次はその場に立ち尽くす。胸の内が、ざわりと荒れた。

若菜が医術の知識を持っていた? 千野教授の学生?

知らなかった。三年間、いちども。

あの日、病室での曖昧な返事が脳裏を刺す。胸が妙に酸っぱい。

――俺のそばで、黙々と秘書をしていた女は、いったい何を隠していた?

賢次の表情を横目で盗み見た温井有紗は、嫉妬で喉の奥が焼けそうだった。

賢次が、清水若菜を気にし始めている。

許せない。

「清水秘書って、そんなにすごいんだね……私、何もできない」有紗は小さくため息をつき、悔しさと悲しさに耐えるように俯いた。

賢次は我に返り、赤くなった目元を見て肩に手を置く。

「気にするな、有紗。お前は十分いい」

有紗は笑って頷き、「トイレに行ってくる」と言った。

賢次は上の空で頷く。

トイレに入った瞬間、有紗の目から温度が消えた。スマホを取り出し、短く告げる。

「私よ。予定通りにやって」

……

夜明け。

手術室の灯りが消え、千野教授と清水若菜が疲れ切った顔で出てきた。

手術は成功だった。

一日一睡もしていない若菜は、血の気のない顔で、目の下には赤い筋が走っている。今にも倒れそうだ。

賢次は祖父の無事を確認すると、振り向きざま若菜の腕を掴んだ。眉が寄る。

「お前が千野教授の学生なら、なぜ今まで言わなかった」

若菜は疲れ切ったまま、その手を振り払う。目も合わせない。

「名取社長の知らないことなんて、まだ山ほどあります」

今は眠りたい。それだけだった。

若菜は更衣を済ませ、病院を出る。

玄関前に、黒いセダンが停まった。運転手が降り、丁寧に頭を下げる。

「清水さん。名取社長のご指示で、市役所までお送りします。離婚の手続きを」

若菜は一瞬、言葉を失い、すぐに乾いた笑いが漏れた。

さっきまで腕を掴んで問い詰めてきたのに、結局は離婚を急ぐのか。

――いい。早いほうがいい。

若菜は乗り込んだ。

だが少し走ったところで、違和感が背筋を這った。道が違う。市役所の方向ではない。

「この道、違う。どこへ行くの?」若菜は鋭く問い詰めた。

運転手は答えず、口元を歪めた。薄気味悪い笑み。

若菜は窓を開けようとする。だが窓もドアもロックされ、びくともしない。

鼻先に、妙な匂い。視界がゆらぎ、頭がぼうっとする。手足から力が抜けていった。

ルームミラー越しに見えた運転手の顔は、下卑た笑みで濡れていた。

「清水さん、抵抗しないで。ちょっと寝てればいい。あとでたっぷり気持ちよくしてやるから」

若菜の胸に、恐怖が弾けた。

――誘拐。

だめだ。ここで終わってたまるか。

彼女は唇を噛み、血の味で意識を繋ぎ止める。震える指で、暗記している番号を押した。

頼れるのは名取賢次しかいない。三年夫婦だった情だけでも、助けに来てくれる?

すぐに通話がつながる。

若菜は縋りつくように叫んだ。

「賢次、助け――」

だが返ってきたのは、温井有紗の声だった。

「賢次、名取おじい様ももう大丈夫なんだし、買い物行こう? 私、ずっと我慢してたの」

賢次は画面に点いた名前を見下ろす。

病院での若菜の冷たい態度が脳裏をよぎり、苛立ちが一気に湧いた。彼は有紗に甘い声で言う。

「いいよ」

そして、通話を切った。

若菜の手が、かすかに震えた。

心臓が底へ沈んでいく。

その瞬間、わかった。

――夫は、助けに来ない。

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