第1章

 隆二と結婚して七年になる。両親が他界して以来、遺された事業の切り盛りに忙殺され、キッチンに立つ余裕など微塵もなかった。

 今年のクリスマスイブは、隆二のお気に入りである高級隠れ家レストランからディナーを取り寄せた。

 玄関先に立つ配達員は、困惑した面持ちで私を見た。

「つい先ほど、702号室にも同じお店の料理をお届けしたのですが……配達先を間違えてしまったでしょうか?」

 私の部屋は802号室だ。ずっしりと重いビニール袋に結びつけられたレシートを、ひったくるように奪い取った。

 心臓が、ドクンと嫌な音を立てて凍りついた。

『重度のマンゴーアレルギーに注意。全メニューにおいてマンゴーの使用を厳禁とすること』

 私の知る限り、重篤なマンゴーアレルギーを持つ人間は隆二しかいない。この命に関わる食事のタブーを知っているのは、私だけのはずだった。

 なぜ、真下の部屋の住人がまったく同じ料理を頼み、まったく同じ、これほどまでに具体的なアレルギーの注意書きを添えているのか。

 思考が追いつくよりも先に、身体が動いていた。

 重いビニール袋をいくつも鷲掴みにし、階段を駆け下りて702号室へと向かった。

 拳が赤くなるほど、激しくドアを叩きつけた。

 勢いよくドアが開く。その瞬間、私の顔からさっと血の気が引いた。

 玄関に立っていたのは、隆二だった。

 私の夫。ほんの三十分前、遠方で重要な商談の真っ最中だと、電話越しにそう誓って言っていた彼だった。

 それが今、目の前に立っている。私が彼のために編んだ、あのセーターを着て。

 彼の顔もまた、瞬時に蒼白となった。極度の狼狽がその顔に張り付き、私を穴のあくほど見つめていた。

「美憂?!」

 彼は絶句した。

「出張?」

 私の声は、氷の刃のように冷え切っていた。

「七階でプロジェクトの商談でもしているわけ?!」

 隆二は慌ててドアを閉めようとしたが、私は荒々しく隙間に足をねじ込んだ。

「帰れ!」

 歯を食いしばって低く唸る彼の視線は、ひどく狼狽した様子で室内へと泳いでいる。

「とっとと上の階に戻れ!」

「あなた、誰?」

 奥から、甘ったるい女の声が聞こえてきた。

 一人の女が、のんびりとした足取りで彼の背後に姿を現した。

 私の視線は即座に、大きく膨らんだ、明らかに妊娠しているそのお腹に釘付けになった。

「あなた?!」

 喉から引き裂かれるような悲鳴がほとばしった。

「今、私の夫を——あなたって呼んだ?!」

 女は微塵も怯える様子を見せず、片手で膨らんだお腹を庇うように撫でながら、もう片方の手を隆二の肩に馴れ馴れしく置いた。

「隆二、この頭のおかしい女、誰?」

 女は冷笑を浮かべ、私を頭のてっぺんから足の先までねっとりと見分した。その瞳にはありありと嫌悪が浮かんでいる。

「せっかくのクリスマスを台無しにしに来たわけ?」

「私こそが彼の妻よ!」

 金切り声を上げ、力任せにドアを押し開けようとした。

「私たちはもう結婚して七年になるのよ!」

 あともう少しで彼女に飛びかかり、その細い首を絞め上げようとしたその時——リビングから、あどけない子供の声が響いた。

「真理恵お母さん? ご飯、届いたの?」

 息が詰まり、心臓を素手で握りつぶされたかのような衝撃が走った。

 六歳になる私の息子、陽翔が、ニコニコと笑いながらリビングから廊下へと飛び出してきたのだ。

 その小さな体は、真新しい限定生産のキャラクターの着ぐるみに包まれている。どう見ても高価な代物で、真理恵が彼を手懐け、機嫌を取るために買い与えたのは明白だった。

 彼は真理恵を見上げ、「お母さん」と呼んだ。

 そして陽翔は振り返り、私を見た。彼の、本当の母親を。

 だが、その瞳は虚ろで、凍りつくような冷淡さしか宿っていなかった。

 私が痛みを堪えて産み落とした実の息子。十月十日もお腹の中で育てた我が子が、今、この異常で歪んだ茶番劇に自ら喜んで加担しているというのか。

「陽翔……?」

 震える唇から零れ落ちた言葉とともに、堪えきれなくなった涙があふれ出した。

「どうして、そんなことをしているの……?」

 陽翔は露骨に嫌な顔をすると、真理恵の足の後ろに隠れた。

「あの大声のオバサン、追い払ってよ、お母さん」

 私の中で、最後に残っていた理性の糸が完全にぷつりと切れた。

「この、悪辣なクズが!」

 私は咆哮した。

 手にしていた熱々の高級料理の入った袋を鷲掴みにし、真理恵の顔を目掛けて思い切り投げつけた。

「真理恵、危ない!」

 隆二が恐怖に満ちた声を上げる。

 彼は猛然と彼女の前に立ちはだかり、身を挺して、煮えたぎるスープの入った袋を全身で受け止めた。

 プラスチックの容器が爆弾のように破裂し、熱湯のようなスープが四方八方に飛び散る。

 隆二は熱さに呻き声を上げ、苦痛に顔を歪めたが、自らが負ったひどい火傷など完全に無視していた。

 すぐさま振り返り、慌てふためきながら真理恵の全身を隅々まで確認する。

「怪我はないか?! 火傷しなかったか?!」

 彼は壊れやすい硝子細工でも扱うかのように、パニックに陥りながら彼女を抱きしめた。

「この女、私たちの子を殺そうとしたのよ!」

 真理恵は泣き叫びながら私を指差した。

「ここは個人の家よ! 不法侵入よ! 警察を呼んで!」

「殺してやる!」

 私は再び飛びかかり、いかにも可哀想に泣きじゃくりながらも勝ち誇っている真理恵の顔を平手打ちしようと、右手を高く振り上げた。

 だが、その手が振り下ろされるより早く、鋼の万力のような力が私の手首を死に物狂いで掴み取った。隆二だった。

「これ以上、彼女に指一本でも触れてみろ!」

 隆二が吠える。その顔は、歪んだ怒りと憎悪で満ちていた。

 彼はありったけの力を込め、私を外へと激しく突き飛ばした。

 瞬時にバランスを崩し、私の体はドアの外へと放り出される。

 背中が、硬質な金属のドア枠に激突した。

 ドン、という鈍い音が廊下に響き渡る。脊椎から全身へと稲妻のような激痛が走り、私は冷たい床に崩れ落ちた。

 凄まじい騒ぎの余韻が、いつまでも廊下で反響している。

 周囲のドアが次々と開き始めた。怒声と衝突音を聞きつけ、近隣の住人たちがこぞって様子を見に出てきたのだ。

 彼らは顔を覗かせ、ひそひそと囁き合い、指を差し、気味の悪いものでも見るような目で私を凝視している。

 冷たい床にうずくまり、全身の痛みに震えながら顔を上げると、そこには私を裏切った夫と、完全に洗脳された息子の姿があった。

 這い上がるような屈辱が、私の息の根を完全に止めようとしていた。

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