第2章
泥のような眠りから、ふと意識が浮上した。どれくらいの時間が経ったのだろう。
「あら、目が覚めた?」
隣のベッドの産婦が、私が目を開けたのに気づき、同情に満ちた眼差しで覗き込んできた。
「看護師さんが言ってたわよ。急速分娩で、あなたも赤ちゃんも二時間近く蘇生処置を受けてたって……そんな生死の境をさまよう大変な時だったのに、旦那さんはどうして来なかったの?」
私は呆然とした。
「彼、来てなかったんですか?」
その瞬間、帝王切開の傷の痛みさえ霞むほどの、心臓が凍りつくような悪寒が走った。
私は深く息を吸い込み、胸の奥で渦巻く酸っぱい感情と怒りを無理やり押し込め、平野光希の番号をタップした。
『もしもし、サラーか?』
受話器越しの光希の声は、なぜか息が上がっていた。
『お前さ、気が短すぎるよ。ちょっと待てって言っただろ? 小崎美由の家の窓ガラスが暴風雨で割れちまってさ。今すぐ直さないと、今夜の雨風で部屋中水浸しになっちまうんだよ』
スマホを握る私の指は、関節が白く浮き上がるほど力がこもっていた。
「光希。あなたが『あと十分』と約束してから、もう四時間が過ぎてるのよ」
『だから今忙しいんだって! わかったよ、すぐ行くから』
プツン。電話は一方的に切られた。
暗転した画面を見つめるうち、堪らえきれなくなった涙がついに頬を伝った。
それから十分後、光希から着信があった。
『おいサラー! 一体何してるんだ? どうして車にいない? 外は土砂降りだぞ。臨月の妊婦が勝手に出歩いて、俺を心配させるな!』
どうやら彼は、私が消えたことにようやく気づいたらしい。
その時、巡回の看護師がドアを開けて入ってきた。
「雨宮サラーさん、出血の具合を確認しますね。それと、赤ちゃんが低体重ですので、体温の変化にはくれぐれも気をつけてください」
電話の向こうが、シンと静まり返る。
数秒の沈黙の後、光希の声が信じられないといった様子で震えた。
『サラー……? お前、どこにいるんだ? まさか……産まれたのか?』
私は何も答えず、静かに通話を終了させた。
結局、光希はやって来た。
彼が病室に飛び込んできた時、私は心身ともに限界を超えていて、彼を見る気力さえ残っていなかった。
「サラー、聞いてくれ。俺は本当に……」
彼はベッドサイドで何か言い訳をしながら、私の手を握ろうとする。
私はその手を振り払い、瞼を閉じた。
聞きたくない。
今の私は、ただ眠りたかった。
深い眠りから覚めると、椅子はまた空になっていた。光希の姿はもう病室にない。
サイドテーブルには、走り書きのメモが残されていた。
『看護師に産褥パッドとオムツが必要だと言われた。下の売店で買ってくる。すぐ戻る』
私は慣れた手つきでスマホを操作し、小崎美由のSNSを開く。
一時間前に更新されていた。
写真は39度を示す体温計と、子供の額に氷嚢を当てる男の大きな手。
その薬指に光る結婚指輪は、私が選んだデザインそのものだった。
投稿文にはこうある。
『空くんが急な高熱で痙攣……どうなることかと思ったけど、あなたがいてくれて本当によかった。疲れてるはずなのに、これぞ本当の頼れるパパね』
やっぱり、これが真実か。
彼が病室にいたのは、せいぜい三十分程度だったのだろう。
彼は「俺たちの娘はどこだ?」という言葉さえ、一度も口にしなかった。
画面を見つめながら、私は泣き顔よりも酷く歪んだ笑みを浮かべた。
「あの、大丈夫?」
隣の産婦が、気まずそうに声をかけてくる。
「何も持ってないみたいだから……もしよかったらこれ、使って? 夫が張り切って買いすぎちゃったの」
「ありがとうございます……」
喉が詰まり、目頭が熱くなる。
見知らぬ他人の親切が、まるで平手打ちのように私の結婚生活の惨めさを叩きつけた。
深夜。私の娘の顔色が紫色に変わり、小さな胸が激しく上下し始めた。
「先生! 看護師さん!」
私は恐怖に駆られてナースコールを連打したが、廊下が騒がしく、急患の対応に追われているのか反応がない。
恐怖が激痛を凌駕した。
引き裂かれるような下半身の傷の痛みを食いしばり、私は呼吸困難に陥った娘を抱き上げた。
あまりに小さく、燃えるように熱い体。腕の中のこの子は、まるで瀕死の雛鳥のようだった。
私は裸足のまま、よろめきながら病室を飛び出した。
「先生はどこ……誰か、この子を助けて……」
鉛のように重い足を引きずる。一歩踏み出すたびに、ナイフで内側から抉られるような激痛が走り、冷や汗が瞬く間に手術着を濡らした。
ドアが半開きになった一般小児科の病室の前を通りかかった時――聞き覚えのある声に、私はその場に釘付けになった。
「よしよし、空はいい子だ。パパがついているからな。もう痛くないぞ……」
錆びついた首を、ゆっくりと回す。
ドアの隙間から見えたのは、ベッドの端に座り、美由の息子を抱きしめる平野光希の姿だった。
彼は子供の背中を優しくトントンと叩きながら、柔らかな声で童謡を口ずさんでいる。
それは私が妊娠中、「お腹の子に歌ってあげて」と頼んだ時、彼が「馬鹿馬鹿しい」と切り捨てたはずの歌だった。
それを今、彼はあんなにも愛しげに、慣れた様子で歌っている。
美由はその横で、うっとりとした目でその光景を見つめていた。
片や私は、産まれたばかりの高熱の娘を抱き、血と汗に塗れ、狂人のように廊下に立ち尽くしているというのに。
その時、腕の中の娘が苦痛に耐えかね、鋭く掠れた叫び声を上げた。
「オギャアアアアッ!」
光希が反射的に顔を上げ、その視線がドアの隙間を突き抜けて、私へと突き刺さった。
