第3章
平野光希が、反射的に立ち上がる気配がした。
私は娘を抱きかかえたまま、振り返りもせずに医師の執務室へと駆け出した。
懸命な処置の甲斐あって、娘の体温はようやく下がった。肺の感染症が引き起こした急性高熱だったという。
保育器の中で再び穏やかな寝息を立て始めた我が子を見つめながら、私は椅子に崩れ落ちた。全身の力が、指先からずるりと抜け落ちていくようだった。
「サラー……」
平野光希が歩み寄り、私の肩に手を回そうとする。
「ごめん……誓うよ。こんなに事態が深刻だなんて、本当に知らなかったんだ」
押し黙る私を見て、彼は足元に跪き、氷のように冷え切った私の手を強く握りしめた。その目元は赤く滲んでいる。
「もう、どこへも行かない。君と娘が退院するまで、ずっとここにいて付き添うよ。約束する」
もし数日前なら、この言葉を聞いて涙を流して感動していただろう。
だが今は、心の水面は鏡のように凪いでいた。
身を引き裂かれるような怒りも、嫉妬も、この瞬間、嘘のように消え失せ――あとにはただ、死灰のような冷淡さだけが残されていた。
私は身を引くことも、言葉を返すこともしなかった。
「光希おじちゃん?」
遅すぎた温情を、おどおどとした声が破った。
小崎美由の息子、空が、恐竜のぬいぐるみを抱いて入り口に立っている。その瞳は涙で潤んでいた。
「僕とママのこと、もういらないの?」
空が泣きじゃくりながら問いかける。
平野光希の体が、強張った。
「サラー……」
彼は顔を背け、視線を泳がせながら、私を直視しようとしない。
「まずはあの子を、送ってやらないと」
私はゆっくりと、彼の手のひらから自分の手を引き抜いた。
「行ってあげて」
平坦な声で、そう告げる。
平野光希は荷が下りたような顔をした。彼は私の額に慌ただしく口づけを落とす。
「すぐに戻るから」
それからの数日間、彼は言葉通り私のそばに付き添ったが、その心がここにあらずなのは痛いほど伝わってきた。
彼のスマホは絶えず震え続けている。空が悪夢を見た、小崎美由の車のエンジンがかからない……。
そのたび、彼は咎めるような、それでいて許しを乞うような目で私を見てくる。
私はとびきり寛大になっていた。
「行ってくればいいじゃない」
退院の日。平野光希は「会社の会議があるから、戻るまで待っていてくれ。迎えに行く」と言った。
私は愚直に彼を待つことなどしなかった。一人で荷物をまとめ、赤ん坊を抱き、重たいボストンバッグを引きずって、退院手続きの窓口へと向かう。
病院の出入り口で、隣人の佐々木に出くわした。
彼の妻はこの病院で働いており、彼は毎日こうして妻を迎えに来ては、二人で食事やデートに出かけているのだ。
私を見つけると、彼は驚きの声を上げた。
「サラー? なんてこった、産後なのにどうして一人でこんな大荷物を? 光希はどうしたんだ? ……まあいい、家まで送るよ」
彼は手を伸ばし、私の荷物を持とうとする。
「大丈夫よ、佐々木さん。タクシーで帰れるから」
私は身をひるがえしてそれを避け、礼儀正しい微笑みを貼り付けた。
「奥様のお迎えなんでしょう? 早く行ってあげて。待たせちゃ悪いわ」
「わかった。何かあったら電話してくれ。知っての通り、僕と光希はいい友人だし、僕の妻だって、君を助けることを嫌がったりはしないから」
去り際に、佐々木はそう言い残した。
一苦労して、ようやくタクシーを拾うことができた。
車は賑やかな繁華街の交差点で、赤信号に捕まった。
私は疲労困憊の体で窓ガラスに寄りかかり、何気なく街角の高級ブランド店のショーウィンドウに視線を流した。
その瞬間、全身の血液が凍りついたようだった。
明るく照らされたガラスの向こうに、「緊急会議中」であるはずの平野光希の姿があったのだ。
彼は空を抱きかかえ、手にはブラックカードを持って、会計を済ませているところだった。
カウンターに置かれていたのは、モスグリーンの限定ハンドバッグ。
それは三ヶ月前、私が足を止めて長いこと見つめていたあの鞄だった。
あの時、平野光希は眉をひそめて私の腕を引き、こう言ったのだ。
『サラー、子供を育てるために貯金しなきゃいけないんだ。こんな中身のない高いだけのもの、必要ないだろう』
なのに今、彼は慈しむような満面の笑みで、小崎美由を見つめている。彼女はそのバッグを手に取り、肩にかけ、鏡の前でくるりと回って見せていた。
私は視線を外し、腕の中で安らかに眠る娘を見下ろして、自嘲気味に口元を歪めた。
運転手が私の様子に気づいたらしい。彼は窓の外を一瞥してから、私に尋ねた。
「お客さん、降りますか?」
