第1章
立て続けの手術を終え、白石紗季は自分の足がまるで他人のものになったかのような感覚に襲われていた。
三件連続のオペ。午後四時から深夜十一時まで立ちっ放しだったのだ。縫合を続けた手首が、微かに痙攣している。
更衣室の鏡に映る自分の顔は、幽霊のように蒼白だった。
目の下には、誰かに殴られたかのような濃い隈が浮き出ている。
携帯の振動が、束の間の静寂を破った。
桐島怜真だ。
「紗季、今から苺のバースデーケーキを買ってオフィスに持ってこい」
怜真の声に、こちらの都合を伺う余地など微塵もない。
「今すぐだ」
紗季は口を開いたが、喉が張り付いて掠れた音しか出ない。
「怜真、私、オペが終わったばかりで、少し……」
「白子の誕生日なんだ」
怜真は不機嫌そうに言葉を遮った。
「病院の近くだろ。さっさと買って来い。時間がなくなる」
白子?
その名前に、紗季の思考が一瞬凍りついた。疲労のあまり、その名が持つ意味をすぐに思い出せない。ただ漠然とした、けれど確かな親しみを覚えるだけだ。
「……わかった」
気がつけば、そう答えていた。
通話が切れた画面を、紗季はしばらく見つめていた。
重い腰を上げると、膝から力が抜けて崩れ落ちそうになる。廊下の白い蛍光灯が、目に突き刺さるように痛い。
病院近くのコンビニはまだ開いていた。紗季は鎮痛剤を二錠買い、ミネラルウォーターで流し込んだ。
ケーキ屋は二つの通りを隔てた場所にある。
鉛のような体を引きずって辿り着いた時、店員はまさに看板を下げようとしていた。
「すみません、苺のホールケーキを……お願いします」
紗季の声は、まるで命乞いのように弱々しかった。
店員は彼女の血の気のない顔を見て、小さく頷いた。
「メッセージプレートは?」
紗季は言葉に詰まった。
なんと書く? お誕生日おめでとう? いつまでも若く美しく?
「『白子、誕生日おめでとう』で。それだけでいいです」
結局、それしか言えなかった。
ケーキの箱を提げ、東京の夜を歩く。冷たい風がナイフのように頬を切りつける。
胸の奥が、理由もなくざわついた。
怜真の会社が入るビルは、煌々と明かりが灯っている。
エレベーターの鏡面が、紗季のみすぼらしい姿を映し出した。乱れた髪を直そうと手を上げたが、指先の震えは止まらなかった。
二十三階でエレベーターが止まる。
扉が完全に開ききる前に、オフィスから笑い声が漏れ聞こえてきた。
「桐島さんってば、ほんとに意地悪なんだからぁ」
砂糖菓子のように甘ったるい、女の声。
続いて、怜真の低い笑い声が響く。
紗季はエレベーターホールに立ち尽くし、ケーキの箱の持ち手をきつく握り締めた。
踵を返して立ち去るべきだ。何も聞かなかったことにして。
そうすべきなのに――
彼女は震える手を上げ、オフィスのドアを小さくノックした。
「入れ」
怜真の声には、明らかな苛立ちが滲んでいる。
紗季はドアを押し開けた。
デスクに座る怜真の傍らに、若い女が立っている。白いワンピースに長い髪。スマホの画面に向かってポーズを取り、自撮りをしている最中だった。
紗季の姿を認めると、女は動きを止め、ぱっと花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
「紗季さん、来てくれたんですね!」
その瞬間、紗季の記憶が鮮明に蘇った。
七年前の北海道、礼文島。あの痩せこけた少女だ。親の虐待を受け、高熱で昏睡し、荒れ果てた家で死にかけていた子供。
あの閉ざされた場所から彼女を連れ出したのは、紛れもない紗季自身だった。
学校を探し、アパートを借り、毎月欠かさず生活費を送り続けた。
実の妹のように慈しみ、その成長を見守ってきたはずだった。
その「妹」が今、夫の隣で大輪の花のように笑っている。
「ケーキ、置いておくわ」
紗季は箱をデスクに置いた。
「誕生日おめでとう」
自分のものとは思えないほど、恐ろしいまでに平静な声だった。
成瀬白子はケーキを受け取ると、怜真の腕に身体を寄せた。
「桐島さん、見てください。紗季さんってば、本当に優しいですねぇ」
怜真は紗季を一瞥した。その瞳には、何の感情も宿っていない。
「帰っていいぞ。俺は今夜、残業してく」
紗季は無言で頷き、背を向けた。
部屋を出ようとした刹那、背後から成瀬白子の潜めた声が聞こえた。
「桐島さん、紗季さん怒っちゃったかな?」
続いて、怜真の素っ気ない返答が耳に届く。
「放っておけばいい。すぐに慣れる」
