第4章
「白石さん、お祖母様の容体が急変しました。至急ICUへ移す必要があります。すぐに来て同意書にサインを」
受話器越しの声は、切迫し、重苦しかった。
病院に到着したときには、祖母はすでに集中治療室へと運び込まれていた。
ガラス越しに見える祖母の体は、幾本ものチューブに繋がれ、心電図モニターが規則的な電子音を刻んでいる。
紗季はしばらく扉の前で立ち尽くしていたが、意を決して重い扉を押し開けた。
「おばあちゃん……」
冷たくなった手を握りしめた瞬間、涙が堰を切ったように溢れ出した。
「紗季……泣かないで……」
祖母は力を振り絞って手を上げ、紗季の頬を伝う涙を拭おうとする。
「おばあちゃん、よくなるから」紗季は声を詰まらせた。「私、医者だよ? 絶対に助けるから――」
祖母は首を横に振った。その瞳が、不意に澄み渡り、鋭い光を宿す。
「紗季。おばあちゃんはもう、十分生きたよ」
「でも、あんたはまだ、自分のために生きてない」
紗季の嗚咽が止まった。
祖母は紗季の手を強く握り返した。虚弱だが、確固たる意志のこもった声だった。
「もう我慢しなくていい。耐えるのはやめなさい。いいかい?」
紗季の体が震え始めた。
こんな言葉を聞くのは、初めてだった。
幼い頃から、祖母は常に「強くあれ」「耐え忍べ」「人のために尽くせ」と紗季に教えてきたのだ。それなのに今、この期に及んで――。
もう、忍ぶなと言う。
「おばあちゃんは、全部わかってるよ」
目尻から涙が伝い落ちる。
「怜真……あの男は、あんたがそこまでする価値のある人間じゃない……」
「紗季、手放すことを覚えなさい」
紗季はベッドの端に突っ伏し、肩を震わせて泣き崩れた。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面に通知がポップアップする――。
白子からだ。
添付された写真には、ピンクのパジャマ姿の白子が、怜真の腕に抱かれて満面の笑みを浮かべている姿が写っていた。
添えられたメッセージはこうだ。
『怜真さん、昨夜はうちにお泊まりだったよん♪ お姉ちゃんはお仕事頑張ってね、彼の邪魔しちゃダメだよ~』
紗季はその写真を凝視し、指に力がこもる。
「あの人たちかい?」
祖母が弱々しく尋ねた。
紗季は答えず、ただメッセージを削除した。
だが、間髪入れずに次が届く。
『お姉ちゃん、怜真さんがスイスにスキー連れてってくれるって~♪ 気にしないよね?』
削除。
『お姉ちゃん、怜真さんが新車買ってくれたの~』
削除。
『お姉ちゃん、怜真さんが言ってたよ。結婚なんてただの形式だって。本当に愛してるのは私だって~』
紗季の手が止まった。
顔を上げると、祖母が悲痛な眼差しでこちらを見つめていた。
「紗季、もう自分を騙すのはやめなさい」
声は次第に小さくなっていく。
「あんたは、もっといい人と出会える……」
「愛される価値があるんだから……」
突如、心電図モニターのアラーム音が激しく鳴り響いた。
医師と看護師が雪崩れ込み、紗季は隅へと追いやられた。
彼女は廊下に立ち、ガラス越しに中の慌ただしい影を見つめた。
祖母のバイタルサインが急激に低下していく。
「白石先生、今は下がってください! 邪魔になります!」
紗季は膝から崩れ落ちそうになった。
自分は医者だ。こういう場面は嫌というほど見てきた。
だからこそ、次に何が起こるか痛いほどわかってしまう。
電子音の間隔が間延びしていく。
ピッ……。
ピッ……。
ピーーーーーー。
ついに、一本の直線へと変わった。
医師がマスクを外し、時計に目をやる。
「二〇二四年三月十五日、午前三時四十七分。心停止。蘇生措置を行いましたが反応なし。死亡確認」
紗季は廊下に立ち尽くし、無音の涙を流していた。
泣き叫ぶことも、取り乱すこともしない。ただ静かに、そこに在った。
看護師がドアを開け、声を潜めて言う。
「白石先生、中へどうぞ。最期のお別れを」
病室に入ると、祖母は安らかな顔で眠っていた。苦痛の痕跡はない。
冷たくなった手を握ると、脳裏に無数の記憶が走馬灯のように駆け巡った――。
手を引かれて学校へ通った日々。
深夜の電灯の下、制服を繕ってくれた丸い背中。
医学部に合格したとき、涙を流して喜んでくれた笑顔。
そして結婚式の日、厳かに紗季の手を怜真へと託した姿。
あの時、祖母は言ったのだ。
『怜真さん、紗季を頼みましたよ』
怜真は笑顔で応えた。
『はい、大切にします』
それなのに、今は――。
紗季は瞳を閉じ、祖母の氷のような手の甲に涙を一粒落とした。
「おばあちゃん、わかったよ」
「もう、我慢しない」
窓の外が白み始め、東京の朝が冷たく、騒々しく明けようとしていた。
紗季は一晩中、病室の椅子に座り続けていた。闇が光に変わるのを、ただ虚無の表情で見つめていた。
看護師長が入室したとき、彼女はまだ同じ姿勢を保っていた。
「白石先生……」
紗季が顔を上げる。その瞳は、恐ろしいほどに冷静だった。
「退院の手続きをお願いします」
そして、誰に言うともなく、けれど誰よりも自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「私、離婚するわ」
