第2章
由美視点
黒のセダンが、桜原丘のタウンハウスの前で甲高い音を立てて急停車する。亮はスーツの上着を脱ぐのももどかしく、車のドアを押し開けると、玄関に向かって大股で歩き出した。
玄関ホールは暗い。彼の手が壁を手探りし、照明のスイッチを探す。シャンデリアが瞬きながら灯ると、すべては以前と同じに見えるのに、何かがおかしいという感覚があった。
ドアのそばにある靴棚は空っぽだ。彼女がいつも履いていた、あの白いキャンバス地のスニーカーがない。空気からは、もう彼女のラベンダーのシャンプーの香りがしなかった。
「黒崎さん?」蒼井さんがキッチンから顔を出し、その手にはティーカップが握られていた。彼女はぎょっとしたように目を見開く。「今夜はご夕食のご予定があったかと……」
「由美はどこだ?」
蒼井さんは言いよどんだ。「奥様は、五時ごろにお帰りになりました。スーツケースに荷物を詰めて、出ていかれました。数日間、ご友人のところに泊まると……」
彼はもう聞いていなかった。すでに階段を二段飛ばしで駆け上がっている。
寝室のドアが乱暴に開け放たれる。クローゼットの扉は大きく開け放たれ、ハンガーの半分は空になり、ばらばらな角度で傾いていた。彼女が使っていた側のドレッサーの上には何もない。彼がこの三年間で贈ったジュエリーボックスは、すべて消えていた。ダイヤモンドのイヤリング、真珠のネックレス、エメラルドのブレスレット。
隅に残されているのは、小さなバレエシューズの形をしたジュエリーボックスだけ。中は空だった。
『もう戻らないつもりだ』
階下では、ダイニングテーブルの上に書類がきちんと束ねて置かれていた。離婚届だ。そしてその隣に、一通の手紙。
亮はそれを手に取る。一言一句、目で追っていく。
『亮、ごめんなさい。この結婚は、いずれにせよ終わるはずでした。三年間、ありがとうございました。梨乃さんが戻ってきましたね。あなたたち二人で、やり直せます。お腹の子のことは私が責任を持ちます。あなたやあなたの人生の邪魔はしません。 由美』
「梨乃さんが戻ってきた」という一文に、彼は眉をひそめた。もう一度読み返す。
「梨乃?」彼はその名を小声で繰り返した。
「.......」三秒の沈黙。
そして彼は笑った。冷たく、鋭い笑い声だった。「梨乃だと? 戻ってきていたなんて、知るか!」
彼は手紙を拳で握りつぶし、壁に叩きつけた。両手をテーブルに叩きつける。こめかみに青筋が浮き上がった。
蒼井さんは、まだティーカップを手にしたまま、階段のそばにたたずんでいる。
亮はスマートフォンを取り出す。その指は微かに震えていた。「亮介。由美を探せ。どこにいようが構わん。急げ」
「黒崎さん、夜の九時半ですよ」
「時間はわかってる。報酬は三倍だ。今すぐ始めろ」
彼は通話を切ると、床に落ちたくしゃくしゃの手紙を睨みつけた。
最初の二日間は、記憶が曖昧なまま過ぎていった。亮はオフィスに座り、目を充血させながら由美のアカウントをスクロールし続ける。インスタグラム、フェイスブック、ツイッター。すべて非公開になっていた。彼女はあらゆるSNSで彼をブロックしていた。
三日目、直哉がノックした。「社長、情報が入りました。奥様がクレジットカードを空港でご使用になったようです」
亮の頭がはっと上がる。「どこだ?」
「南星市です。昨日の夕方、六時の便です」
四日目、彼は紗奈に電話をかけた。呼び出し音が七回鳴る。
「黒崎さん」彼女の声は平坦だった。
「彼女がどこにいるか教えろ」
紗奈は笑った。「知らないわ。それに、もし知っていたとしても、どうしてあなたに教えなきゃいけないの?」
「遊びじゃない。彼女は妊娠していて、一人なんだぞ」
「よく言うわ。あなたが消えるようにと7,500万円も渡したんでしょう。今さら献身的な夫のつもり? 彼女はあなたに会いたくないの。諦めなさいよ」
通話が切れた。
五日目には、亮はかろうじて平静を保っている状態だった。役員会議で、取締役たちが第三四半期の報告書を発表している。彼はテーブルの首席に座り、書類に目を落としてはいるが、その心は三千マイル彼方に飛んでいた。
「……つきましては、アジア太平洋地域への投資を増額することを推奨します。黒崎さん? 社長?」
彼ははっと我に返った。全員がこちらを見ている。「続けろ」
三分後、彼のまぶたはまた重く落ちてきた。
二十一日目、直哉はガラス張りのオフィスの外に立ち、ドア越しに上司の様子をうかがっていた。亮はこの三週間、オフィスのソファで寝泊まりしている。昨日は、会議中に三度も居眠りをした。
直哉はノックする。「社長、もう三週間もご自宅に帰られていません。取締役会も心配し始めています」
亮はスクリーンに映し出された蒼井市の地図から目を上げない。「亮介にリストを送れ。南星市内の全ホテル、カフェ、書店、美術館.......彼女はそういう場所に行くはずだ」
「五百箇所以上になりますが」
亮が顔を上げる。その視線は鋭く、人を斬りつけんばかりだ。「なら、一軒一軒調べろ」
午後三時四十七分、彼の私用の電話が鳴った。亮介からだ。
彼は電話に飛びついた。「見つけたか?」
亮介の声は疲れ切っているが、勝利の響きがあった。「見つけました。『ムーンライトブリュー』というカフェで、バリスタとして働いています。たった今、確認しました」
亮はすでにコートを掴んでいる。「次の便を予約しろ」
直哉はため息をついた。「はい、社長」
だが、亮はもうエレベーターの中にいた。
南星市は霧雨が降っている。カフェの窓ガラスを雨の筋が伝い、外の通りをぼやかしていた。
私はカウンターの内側で、ラテアートに集中している。ミルクピッチャーから立ち上る蒸気で、前髪が湿っていく。
ここに来て三週間。小さなアパートを借り、このカフェで働いている。オーナーは親切な人で、あまり根掘り葉掘り聞かなかった。履歴書にさっと目を通して、私を雇ってくれた。
毎日が同じことの繰り返し。コーヒーを淹れ、テーブルを拭き、見知らぬ人に微笑みかける。まるでここで何か新しいものを築けるような気さえしてくる。彼を本当に忘れられるかもしれない、と。
「アメリカーノを一つ。ブラックで、砂糖はなし」
低い声。人を惹きつける響き。一言一言が明確だ。
ミルクピッチャーが手から滑り落ちそうになる。
顔を上げる。
彼がカウンターに立っていた。スーツはずぶ濡れで、髪からは水滴がしたたっている。だが、そんなことは気にも留めていない様子だ。
あの青い瞳が、私に釘付けになっている。
嘘。どうして私を見つけたの? ここは白峰市から三千キロも離れているのに。
「亮……」私の声は震える。「どうして……」
彼の表情は不気味なほど穏やかだ。まるで三週間ではなく、三時間離れていただけのように。彼はゆっくりと繰り返した。「アメリカーノを一つ。ブラックで。砂糖はなしで。お願いします」
他の客たちが振り返ってこちらを見ている。何十万円もするスーツを着た男が、ずぶ濡れでこの小さなカフェに立っているのだから。
震える手でコーヒーを淹れる。グラインダーが唸り、熱湯がシューッと音を立てる。その音で頭をいっぱいにしようと努めた。
彼にカップを手渡すと、支払いと同時に彼の指が私の指に触れた。その馴染みのある感触に、体が震える。
「シフトが終わったら、外の車で。話がある」柔らかな声色だが、一言一言が命令だった。
彼はコーヒーを受け取ると、隅の席に座った。その目は私から一瞬も離れない。
六時になり、私はエプロンを外して店長に挨拶をした。ドアを押し開けると、雨は止んでいたが、歩道はまだ濡れていた。
黒のセダンが路肩に停まっている。窓が下がり、亮が後部座席を顎で示した。
逃げられるかもしれない。今すぐに。
でも、無理なことはお互いにわかっている。彼は三週間も探し続けたのだ。これからも探し続けるだろう。
私は息を吸い込み、ドアを引いて開けた。
革張りのシート。かすかなコロンの香り。すべてが亮の匂いだ。
三週間の逃亡が、突然、冗談のように感じられた。
彼はブリーフケースに手を伸ばし、書類を取り出して私の膝の上に放り投げた。
「そのクリニックは三ヶ月前にFDAによって閉鎖された。超音波診断装置は中古の医療用小道具店から仕入れたものだ。ああ、それから君が彼らに書いた小切手は不渡りになった」
私の顔から血の気が引く。頭から血が逆流していくようだった。
しまった。
「お金は返すから。7,500万円、一円残らず」
彼は私の言葉を遮った。その青い瞳に温かみはない。「金が欲しいわけじゃない」
混乱と恐怖が胸の中で渦巻く。「じゃあ、何が望みなの?」
彼の唇が危険な笑みを描く。今まで一度も見たことのない表情だ。
彼は身を乗り出した。「俺の子が欲しい」
私は混乱した。「でも、子供なんていないわ」
彼はさらに身を寄せた。彼の息遣いが感じられる。「なら、作るまでだ」
「君は三年契約にサインしたはずだ、由美。まだ一年半しか経っていない。残りの十八ヶ月間、君は俺の家に住み、本当の妻としての義務を果たしてもらう。実際に妊娠するまでな」
私の目は大きく見開かれた。言葉が出てこない。
