第2章
秋生の名義上の妻になったのは、三年前のことだ。
大学卒業後、私は秋生の会社に入社した。仕事を通じて顔を合わせる機会が増える中、彼は両親からの執拗な結婚催促に悩まされており、私を「信頼できるビジネスパートナー」として白羽の矢を立てたらしい。
その日の夜、残業を終えた私を秋生が呼び止めた。彼はいつもより疲弊しており、眉間には隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
「最近、両親からの結婚の催促が常軌を逸していてね。窒息しそうだ」
秋生は単刀直入に切り出した。
「週に最低三回のお見合い、果てはオフィスにまで相手を連れてくる始末だ。これでは仕事に支障が出る」
私は彼を見つめ返した。なぜ私にそんな話をするのか、見当もつかない。
「妻が必要なんだ」
秋生の表情は真剣そのものだった。
「正確には、両親を黙らせるための、形式上の妻が」
「どういうことでしょうか?」
「君さえ良ければ、三年の期限付きで契約結婚を結びたい」
彼は眼鏡の位置を直しながら言った。
「双方にメリットがある。私は煩わしい催促から解放され、君は莫大な報酬を得られる」
私は言葉を失った。
「三年後に契約が満了した暁には、報酬として三十億円を支払う。加えて、君のお母さんの治療費も私が全額負担しよう」
三十億円。それは、私の想像を絶する金額だった。
「数日考えてみてくれ」
秋生はそう言ったが——
「お受けします」
私に迷いはなかった。
こうして翌日、私たちは婚姻届を提出した。
一週間後、私は港区にある秋生の高級マンションへと引っ越した。
「君の部屋は二階の東側だ」
彼は家の中を案内しながら言った。
「普段は互いに干渉せず、両親が来た時や、どうしても出席が必要な家族行事の時だけ、妻としての演技をしてくれればいい」
だが、事態は契約通りには進まなかった。
家の中があまりに静かすぎたせいか、それとも秋生が本来は穏やかな人だったからか。私たちは思いがけず、日常的な交流を持つようになった。
毎晩、彼が帰宅すると、私はついリビングから顔を出して尋ねてしまう。
「夕食、ご一緒しませんか?」
「君が構わないなら」
彼は決まってそう答えた。
そうして私たちはダイニングで向かい合い、仕事の話や日々の出来事を語らい、たまには映画を観たりもした。
いつしか私は、彼の帰宅を告げる足音を待ちわびるようになっていた。冷蔵庫に彼の好物を常備し、ちゃんと食事をとっているか、眠れているかと案じる日々。
気づけば、私は彼に惹かれていたのだ。
すべてが一変したのは、ある午後のことだった。
その日は四半期総会があり、私はプロジェクト責任者として報告を行った。
会議終了後、秋生の秘書である田中さんが近づいてきた。その笑みには、どこか意味深なものが含まれていた。
「西野さん、ずっと気になっていたのだけれど」
彼女は声を潜めた。
「社長との関係、少し特別なんじゃない?」
私は心臓が跳ねるのを感じた。
「どういう意味ですか?」
「緊張しないで。ただ、見ていればわかるのよ」
田中さんは手元の資料を整えながら言った。
「退社前に必ずコーヒーを淹れていたり、彼が苦手な食材を把握していたり、残業の時にさりげなくサポートしていたり」
「それは……単なる業務上の連携です」
私は冷静なふりしているのに必死だった。
「そうかしら?」
田中さんはクスリと笑った。
「でも、彼を見るあなたの目は、ただの上司を見る目じゃないわね」
その言葉は、鋭いナイフのように私の胸を刺した。
「西野さん、老婆心ながら言わせてもらうわ」
田中さんが一歩近づく。
「秋生の心には、ずっと消えない人がいるの。大学時代から想い続けている人がね。あなたがどれだけ尽くしても、彼女の代わりにはなれないわよ」
思わず拳を握りしめる。
「疑うなら、社長室に行ってみるといいわ」
そう言い残して田中さんは立ち去り、私は廊下に一人取り残された。
その夜、私は一睡もできなかった。
田中さんの言葉が頭の中で反響し続ける。越えてはいけない一線だとわかっていた。これは単なるビジネス契約なのだと。けれど、胸に宿った想いは雑草のように勝手に根を張り、もはや抑えがきかなくなっていた。
翌日は土曜日で、秋生は緊急対応のため出社していた。
私はリビングの窓辺に立ち、東京湾の水面をぼんやりと眺めていた。
不意にスマホが震える。秋生からだ。
『今日は帰りが遅くなる。夕食は待たなくていい』
そのメッセージを長い間見つめ、ようやく『わかりました』とだけ返信した。
だが、胸騒ぎは募るばかりだ。
田中さんの言葉が棘となって心を苛む。
午後三時。居ても立っても居られず、私はバッグを掴んで家を飛び出した。
秋生のオフィスは最上階。週末の社内は閑散としていた。IDカードでゲートを抜け、社長室へと急ぐ。
磨りガラス越しに、電話をしている秋生の姿が見えた。その横顔は真剣そのものだ。
深呼吸をしてドアをノックしようとした瞬間、中から彼の声が漏れ聞こえてきた。
「心夢、いつ東京に戻るんだ? ずっと君の連絡を待っていた」
心夢。
その名を聞いた瞬間、私は凍りついた。
「そうか、それは良かった」
秋生さんの声には、私に向けられたことのない優しさと歓喜が満ちていた。
「すべて手配しておくよ。今回帰国したら、じっくり話し合おう」
彼は一呼吸置き、こう続けた。
「あの時は私の頭が固すぎた。だが、この数年ずっと考えていたんだ。もしやり直せるなら……」
最後まで聞くことはできなかった。踵を返し、私はその場を後にした。
涙で視界が歪み、転がるようにしてビルを飛び出す。
田中さんの言っていたことは本当だったのだ。
秋生さんの心には、ずっと他の人がいた。
私はただの代用品。両親を誤魔化すための、便利な道具に過ぎなかったのだ。
マンションに戻ると、私は自室に引きこもった。深夜になり、秋生が帰宅する気配がする。
「華恋?」
ドアがノックされた。
「いるのか?」
返事はしなかった。
「中にいるのはわかっている」
扉越しに響く彼の声は硬かった。
「話があるんだ」
私は観念してドアを開けた。泣き腫らした目は隠しようがなかった。
私の顔を見て、秋生は眉をひそめた。
「会社に来たのか?」
「……はい」
否定はしなかった。
「では、電話の内容を聞いたんだな」
彼はため息をついた。
「ちょうどいい。どうせ話しておこうと思っていたことだ」
彼は背を向けてリビングへと歩き出し、私はその後ろに従った。
「心夢が東京に戻ってくる」
ソファに腰を下ろした秋生さんの口調は、恐ろしいほど冷静だった。
「彼女は、私が十七歳の頃からずっと想いを寄せている女性だ。大学で出会い、共に学び、起業し、未来を描き合った」
一言一句が、ハンマーのように心臓を打ち砕いていく。
「投資方針の不一致で彼女がA国に戻らなければ、今、私の妻になっていたのは彼女だった」
彼は冷ややかな瞳で私を見据えた。
「華恋、我々の関係が単なるビジネス契約であることは理解しているはずだ」
「……理解しています」
私の声は掠れていた。
「いや、明らかに理解していない」
秋生は立ち上がり、書棚から一通の書類を取り出した。
「でなければ、そんな風に泣くはずがない。補足合意書を追加する必要がある」
彼が書類にペンを走らせるのを、私はただ見ていた。
「今後、君が感情をコントロールできず、私の私生活に越権行為を行った場合、契約違反とみなす」
書きながら彼は言った。
「違反した場合、三十億円の報酬は白紙に戻し、さらに私の名誉毀損に対する賠償金を請求する」
彼は書類を私に突き出した。
「サインしろ」
かつて秋生が、強欲な起業家たちを評して言った言葉が蘇る。『境界線を試すような真似をする連中は、反吐が出る』
私もまた、彼にとって反吐が出る存在に成り下がったのだ。
震える指でペンを握り、私は署名した。
「よろしい」
秋生は書類を回収した。
「いいか、これは取引だ。二度と身の程知らずな感情を抱くな。心夢はすぐに戻ってくる。そうなれば関係性の調整が必要になるかもしれないが、契約の履行には影響しない」
その夜、私は部屋で一人、心の痛みが麻痺するまで座り続けていた。
それ以来、私は感情を徹底的に管理するようになった。彼の帰りを待つことも、夕食に誘うことも、彼の心身を案じることも一切やめた。
冷静に、他人のように、礼儀正しく。真のビジネスパートナーとして振る舞った。
時が経つにつれ、彼への恋心は消え失せた——そう思い込んでいた。
今日、心夢さんの姿を見るまでは。あの瞬間、思い知らされたのだ。秋生さんが十年愛し続けた女性が、ついに帰ってきたのだと。
そして私は、いつでも取り替え可能な、契約上の妻に過ぎないのだと。
