第3章
スマホに映る柏神心夢の写真をぼんやりと眺めていると、不意にメールの通知音が鳴った。
『テック・スタートアップ交流プロジェクト、コーディネーター職の最終面接通過のお知らせ……』
私は我が目を疑い、メールの文面を三度も読み返した。
年収八百万。経済産業省とシリコンバレーが連携する重点プロジェクト——これは、私が喉から手が出るほど欲しかったポジションだ!
『キックオフ・ミーティングは、明日午後二時、秋生テクノロジービル二七階会議室にて行われます……』
翌日の午後。私は複雑な思いを抱きながら、秋生テクノロジービルへと足を運んだ。
二七階の会議室は広大だった。壁一面の巨大な窓からは東京湾が一望できる。会議テーブルの周りには、すでに十数名の男女が着席していた。皆、正装に身を包んだ政府関係者や企業代表たちだ。
私が席に着いた直後、会議室の扉が開かれた。
入ってきたのは秋生だ。そしてその背後には、見覚えのある姿があった。
柏神心夢。
「遅れて申し訳ない」秋生は一同に向けて言った。「こちらはA国側の投資顧問、柏神心夢氏だ。シリコンバレー側を代表してプロジェクトの評価に参加してもらう」
心夢は優雅に会釈し、会議室を見渡す。その視線が私を捉えた瞬間、明らかに一瞬止止まった。
「皆様、今回のプロジェクト・コーディネーターをご紹介します。西野華恋さんです」プロジェクト責任者が私を指し示す。「彼女は豊富な起業経験と——」
「待ってください」
不意に、心夢が遮った。
「その人選について、異議を申し立てます」
会議室が瞬時に静まり返った。
「異議、ですか?」責任者は想定外の事態に戸惑っている。「何か問題でも?」
心夢は立ち上がり、私の目の前まで歩み寄ってきた。
「西野さん。以前起業された『チックトック』とかいうプロジェクト、失敗に終わりましたよね?」
私の顔がカッと熱くなる。
「確かにあのプロジェクトは成功しませんでしたが、しかし……」
「それに私の知る限り、あなたの経歴はかなり複雑なはずです」心夢の声が鋭さを増す。「失敗した起業家で、個人情報の透明性にも欠ける。そんな人物が、これほど重要なプロジェクトのコーディネーターを務められるのですか? 機密保持に重大な影響を及ぼしかねませんわ」
私は愕然として彼女を見つめた。これは、明らかな個人攻撃だ。
「柏神さん、その指摘は少々……」責任者が場をとりなそうとする。
「言いがかりではありません。事実を述べているだけです」心夢は冷ややかに言い放った。「このプロジェクトは両国政府の重大な協力案件です。いかなるリスク要因も容認できません」
全員の視線が秋生に集まった。
日本側の主要パートナーである彼の意見が、最終決定を左右するからだ。
私は息を呑み、彼が弁護してくれることを期待した。
だが、秋生はただ静かに会議テーブルを見つめるだけだった。十秒もの間、重苦しい沈黙が流れる。
「柏神氏の懸念も、もっともだ」
ようやく口を開いた秋生の声は、心が凍りつくほどに平坦だった。
「プロジェクトの安全性を考慮すれば、人選は慎重に行うべきだろう」
胸の奥で、何かが音を立てて砕け散るのを感じた。
「私は柏神氏の専門的な判断を信頼している」秋生は私を一瞥すらせずに続けた。「彼女がリスクがあると判断したのなら、再評価が必要だ」
「ええ、賢明なご判断ね」心夢が勝ち誇ったように微笑む。「私に、もっと適任な人材の心当たりがあります。シリコンバレーでの実務経験は五年。信用情報も完璧です」
責任者が困惑した顔で私を見た。
「西野さん、申し訳ないが、今回は……」
「採用の取り消し、ですね」私は立ち上がった。声の震えを抑えきれない。「承知いたしました」
机上の書類をまとめ、最後の尊厳を保とうと必死に顔を上げる。
会議室の出口で、私は一度だけ秋生を振り返った。
彼はようやく顔を上げ、私を見ていた。その瞳には読み取れない複雑な感情が宿っている。
だが、そんなことはもうどうでもよかった。
重要なのは、最も肝心な場面で、私の夫が私ではなく心夢を信じたという事実だけだ。
部屋を出る背中に、心夢の秋生に対する言葉が聞こえてきた。
「ほらね。やっぱり彼にとって一番大切なのは、私の意見なのよ」
エレベーターの中で壁に寄りかかると、堪えていた涙がついに溢れ出した。
三年の契約結婚が、まもなく終わる。秋生の感情になど期待しない術を、私はとっくに身につけたつもりでいた。
なのに、まさか彼が、最低限の信頼すら私に向けてくれないなんて。
彼の心の中で、私は「いつでも替えの利く契約上の妻」に過ぎないのだ。
そして心夢こそが、彼にとって守るべき存在なのだ。
エレベーターの扉が開く。私は涙を拭い、背筋を伸ばした。
彼が選択をしたのなら、私も自分のために選択をするまでだ。
夜、帰宅しても秋生の姿はなかった。
私は荷物をまとめ始めた。三年間暮らしたこの場所から、出て行くために。
引き出しの奥から、当初交わした契約書と、後に追加された条項書を見つけ出す。
『互いの私生活には干渉しないこと。違反した場合は契約不履行とみなす……』
私は苦笑しながら、それらの書類を破り捨てた。
契約はもうすぐ切れる。彼が道を選んだ以上、すべてを終わらせよう。
その時、スマホが震えた。
画面の表示は——秋生。
画面を見つめ、迷った末に通話ボタンを押す。
「華恋」秋生の声はひどく疲れていた。「今日の件だが……」
「説明なら結構です」私は彼の言葉を遮った。「すべて理解しましたから」
「理解した? 何をだ」
「あなたの中で、私より心夢さんが大切だということです。仕事の話であっても、私より彼女の言葉を信じるということが、よく分かりました」
電話の向こうで長い沈黙が落ちた。
「今夜、ちょっと話し合おう」やがて秋生が言った。「お前に説明しておきたいことがある」
「説明することなんてもういらないです」私は、荷造り途中の段ボールで埋まった部屋を見渡した。「秋生さん。私たちの契約、もうすぐ終わりですよね?」
私は一方的に通話を切ると、スマホの電源を落とした。
