第4章

国際病院の廊下には、ツンとする消毒液の臭いが充満している。母の病室の外、椅子に座る私の手には、督促状が握りしめられていた。

『患者・西野雅子様の医療費、未納分180万円。今週中にお支払いなき場合、特別治療を停止いたします……』

180万円。その数字に、私の手は震えていた。

三年前に母が脳血管疾患で倒れて以来、毎月の治療費は天文学的な数字になっていた。

医療費の大半は秋生が負担してくれていたが、ここ数ヶ月で母の病状が悪化し、輸入薬やより精密な機器が必要になったことで、費用は右肩上がりに増えていた。

病室のドアを開けると、母がベッドに力なく横たわっており、周囲では様々なモニターが電子音を刻んでいる。

「華恋、来てくれたのね」母は辛そうに微笑んだ。「今日は気分がいいの」

母の冷たい手を握りしめた。

「母さん、数値も良くなってるって医者が言ってたわ」

「そう? ならいいんだけど」母の目は少し虚ろだ。「華恋、私、迷惑ばかりかけてない?」

「そんなことないわ。変なこと考えないで」

私は必死に涙をこらえた。

母と一時間ほど話した後、病室を出た。主治医の田辺先生が待っていた。

「西野さん、お話があります」田辺先生の表情は険しい。「お母様の病状は複雑で、来週、三度目の手術が必要です」

「手術費用はいくらですか?」

「術後の特別ケアを含めると、およそ300万円になります」先生は私の顔色を窺った。「高額なのは承知していますが、これが現時点で最も有効な治療法なのです」

300万円。未納分の180万円と合わせれば、計480万円だ。

私の貯金をすべて切り崩しても、半分にも満たない。

病院を出る時、足が震えて力が入らなかった。

病院の入り口にあるベンチに座り、考えられる限りの解決策を反芻する。

銀行のローン? 今の私の収入状況では、審査など通るはずがない。

友人に借りる? これだけの大金、誰が用意できるというのだ。

その時、技術交流プロジェクトの応募要項をふと思い出した。

スマホを取り出し、プロジェクトの詳細条件を再検索する。

『応募者は以下の条件のいずれかを満たすこと:トップレベル大学のMBA取得者、五年以上のシリコンバレー勤務経験、もしくはプロジェクト協力者と直接的な関係を有すること……』

プロジェクト協力者との直接的な関係。

秋生テックはプロジェクトの日本側主要パートナーであり、私は秋生の法的な妻だ。

たとえ契約上の妻であっても、法律上、私たちは確かに夫婦なのだ。

深呼吸をして、プロジェクト申請事務局に電話をかけた。

「はい、技術起業交流プロジェクト申請事務局です」

「もしもし、再申請の手続きについてお伺いしたいのですが」私の声は震えていた。「以前、申請を取り下げられた西野華恋です」

「西野様ですか? 確かに貴女の申請はA国の投資顧問から疑義が出されており、再申請には追加の資格証明が必要となりますが……」

「提供できます」私はスマホを握りしめた。「私は秋生テックの創業者、秋生の妻です。これは直接的な関係と見なされますか?」

電話の向こうで数秒の沈黙が流れた。

「秋生様の……奥様、とおっしゃいましたか?」

「はい、法的な妻です。証明として婚姻届を提出できます」

「それは……想定外の事態ですね」担当者の声が少し慌てている。「本日の午後、関連する証明書類を持ってこちらに来ていただけますか? 確認が必要です」

「承知いたしました」

その日の午後、私は経済産業省のプロジェクト申請事務局を訪れた。

担当者は私の持参した婚姻届を受け取り、記載情報を入念に確認した。

「確かに本物ですね」彼は顔を上げ、複雑な表情で私を見た。「西野さん、なぜ以前はこの関係を申告しなかったのですか?」

「自分の実力でこの仕事を勝ち取りたかったからです」私は答えた。「ですが、事情が変わりました。この資格を行使せざるを得ません」

担当者は頷いた。

「理解しました。ただ、手続き上、この件は直ちに全ての関係者に通知する必要があります。A国の投資顧問を含めて」

「分かりました」

一時間後、スマホが鳴った。

着信表示は『通知不可能』。

「西野華恋ね?」

女性の声だ。明らかな動揺と怒りが滲んでいる。

「どちら様ですか?」

「柏神心夢よ」心夢の声はナイフのように鋭い。「たった今通知が来たわ。あなたが秋生の妻ですって? どういうこと?」

心臓の鼓動が早くなる。

「はい、結婚してもう三年近くになります」

電話の向こうで何かが激しく割れる音がした。

「なんですって? 三年?」心夢の声がヒステリックに響く。「ありえないわ! 秋生はそんなこと一言も言ってなかった!」

「私たちは公表していませんでしたから」

「公表にしてない? それとも、みんなを騙してたってこと?」心夢の笑い声には悪意が満ちていた。「西野華恋、自分が何をしたか分かってるの?みんなの前で私をバカにしたのよ!」

「心夢さん、私は……」

「紙切れ一枚の結婚でこのポジションが手に入ると思ってるの?」心夢の声が陰湿なものに変わる。「言っておくけど、秋生の妻だろうと、その仕事を阻止する方法なんていくらでもあるのよ。それに、あなたたちがどんな夫婦か、世間に知らしめてやるわ!」

電話は乱暴に切られた。

私はスマホの画面を見つめたまま、胸の奥から湧き上がる不安を感じていた。

だが、事ここに至っては、もう後戻りはできない。

翌朝、事態は奇妙な方向へ動き出した。

まずは病院からの電話だ。「西野さん、お母様が虚偽の医療保険情報を使用しているとの通報がありまして、すべての医療記録を再審査する必要があります……」

続いて税務署からの通知。「通報に基づき、所得申告に不正の疑いがあります。今週中に調査にご協力ください……」

さらに新居のマンションの大家からも。「西野さん、入居時に虚偽の職業情報を提供したとの通報が入りました……」

一連のトラブルが立て続けに押し寄せた。それもすべて、私が婚姻届を提出した翌日のことだ。

これが偶然でないことは分かっている。

正午過ぎ、またスマホが鳴った。今度は見知らぬ男性の声だ。

「西野さん、朝日日報の記者の山本です」相手の声は慇懃だ。「タレコミがありましてね。あなたが婚姻関係を隠して政府プロジェクトの役職を争っていると。この件について取材させていただきたいのですが」

「誰からのタレコミですか?」

「情報源は明かせませんが、ご主人がプロジェクト協力者であるにもかかわらず、その関係を隠蔽して競争に参加していたとなると、利益相反に当たる可能性が……」

私は電話を切った。両手が震えている。

心夢は正気じゃない。私を徹底的に破滅させるつもりだ。

午後六時、マンションのエントランスに入ったところで、外に停まっている秋生の車が目に入った。

彼は車から降りてきた。顔色は土気色だ。

「華恋、話がある」声は冷たい。

「乗れ」

車はひと気のない駐車場へと向かい、秋生はエンジンを切ると私の方を向いた。

「自分が何をしたか分かっているのか?」その視線は鋭い刃物のようだ。

私はうつむいた。

「分かっています」

「分かっている?」秋生の声が震える。「契約書には明記されていたはずだ。婚姻関係は絶対に口外しないと」

「秋生さん、母の手術費が必要だったんです……」

「だから契約を破ってもいいと言うのか? 僕の同意もなしに関係を暴露していいと?」秋生はハンドルを強く握りしめた。「今、メディアがどれほど騒いでいるか知っているのか? 心夢が今、どんな思いをしているか、分かっているのか?」

その言葉は、ナイフのように私の心臓に突き刺さった。

こんな時でさえ、彼が心配しているのも心夢のことなのだ。

「契約違反だということは分かっています」私の声は平坦だった。「違約金は差し引いてください」

「違約金?」秋生は苦笑した。「華恋、僕たちの契約があと二ヶ月で満了することは知っているだろう? あと二ヶ月、我慢できなかったのか?」

「待てませんでした」私は顔を上げて彼を見た。「母は、二ヶ月も待てませんから」

「それは君の母親の話だろう!」秋生が声を荒らげる。

そうだ、それは私の母のこと。彼には何の関係もない。

「申し訳ありません」

そう言うしかなかった。

秋生はしばらく私を睨みつけていたが、やがてエンジンをかけた。

「この件は僕がなんとかする」彼は言った。「だが華恋、これは最後だ。次にこんなことがあれば、もう助けない」

彼は私をマンションの下まで送り届けた。車を降りることもなく、さよならの言葉もなかった。

私は路肩に立ち、夜の闇に消えていく彼の車を見つめていた。

彼を完全に怒らせてしまったことは分かっている。

だが、母のためには、他に選択肢などなかったのだ。

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