第1章
「お姉ちゃん、妊娠したの。お義兄さんの子だよ」
「あなたが3年も結婚して一度もできなかったのに、私は一回でできた。ほんと使えないよね」
病院で、目が眩むほど白く光る妊娠検査の紙を見つめながら、松本彩世はしばらく現実感を失っていた。
妊娠7週。ちょうど新谷寒季が出張に出ていた時期と重なる。
「お姉ちゃん、どうしたの? 黙っちゃって」
松本凛が目の前の長椅子に腰を下ろし、勝ち誇ったように笑う。
「……何が目的なの」
答えは分かっている。それでも彩世は訊いた。喉の奥に何かが詰まったみたいで、声を出すたび耳に膜が張ったように感じる。
「もちろん、新谷奥様の席」
凛は笑みをいっそう濃くする。
「松本彩世、仕事もない、家柄も弱い、子どもも産めない。あなたが新谷奥様って、釣り合うと思う?」
松本彩世は目を閉じた。
「寒季と、ゼロから一緒に築いてきたのは私よ」
その後、新谷寒季は新谷家に認められ、巨大な家業を継いだ。罠にはめられて事故に遭い、植物状態になった時も――彩世がそばで支え、目を覚まさせ、リハビリに付き添い、また頂点へ押し戻した。
「帝都で、お義兄さんがあなたにどれだけ甘いか、知らない人なんていないでしょ」
凛は背もたれにもたれ、足を組む。瞳の底には隠しもしない憎悪。
「ヘリで街の半分飛んで朝ごはん買ってきたって、ニュースにもなった。誰かにいじめられたら、相手の骨が折れるまで殴ったって。界隈じゃ有名だもん」
「でもね……」
声がだんだん尖る。
「その「優しさ」、あなたにできるなら私にもできるの」
「お姉ちゃん。愛されないほうが浮気相手なの」
凛は薄く笑い、言葉に毒を混ぜる。
「昔、あんたの母親が松本奥さんの座を奪われて、その場で飛び降りたでしょ。……だったら、お姉ちゃんもさっさと死んだら?」
「そうだ。今夜、お義兄さんは私と記念日を過ごすの」
凛は妊娠検査の紙をひらひら振った。
「港の花火も、彼が私のために上げてくれる。ニュース、見てね。今夜、妊娠のことも伝えるから」
そう言い残し、松本凛は足取り軽く去っていった。
姿が消えてようやく、松本彩世は強く目を閉じる。涙が二筋、頬を伝って落ちた。
新谷寒季とのトーク画面を開き、上へスクロールする。昨日のやり取りが目に入る。
昨夜も彼のスキャンダルを目にして問い詰めた。返ってきたのは、あの一言だった。
『俺が他の女に目が行くわけないだろ』
そのあと電話をして、寒季は帰宅。履歴はそこで途切れている。
いま彩世は、堪えきれず同じ問いを打つ。
『もし、あなたが本当に「いいと思う人」に出会ったら? その人と行く?』
新谷寒季からの着信が即座に入った。
だが同時に、医師の林田哲が診察室の扉を開け、彩世を呼ぶ。
彩世は唇を噛み、スマホをマナーモードにして歩いた。
「状況が少しまずい。切片の結果、悪性だ」
林田哲は報告書を彩世の前へ押しやる。
「星状細胞腫はかなり厄介だ。僕の提案は――すぐ中絶して、化学療法を始めること。いま妊娠8週くらいだよね?」
「もうすぐ9週です」
彩世は乾いた笑みを浮かべた。
松本凛が寒季の子を授かったのは幸福。
けれど自分が彼の子を宿した瞬間、ついてきたのは癌だった。
息を整え、彩世は言う。
「……もし、下ろさずに産むことを選んだら」
「治療の最後のタイミングを逃す」
林田哲は眉間に皺を寄せた。
「ただ、星状細胞腫の拡散は血液脳関門を越えない。胎児に影響は出ない可能性が高い」
「彩世、子どものために命を捨てるのは勧められない」
――でも、この子も命だ。
彩世は小さくうなずく。
「考えます」
「遅くとも1か月以内に化学療法を始めること。急いで」
診察室を出て、彩世は長く息を吐いた。目の奥に絶望が溜まっていく。
妊娠が分かったのは先週。同じ日に腫瘍も見つかった。
寒季に言えば、きっと子どもを諦めて自分を選ぶ。彼がどれほど自分を愛しているか、彩世は知っている。
けれど二人はずっと子どもを望んでいた。そして凛も妊娠している……。
スマホがまた光る。
彩世はようやく電話に出た。
「彩世」
新谷寒季の声は焦っていた。
「どうして出ない? 具合悪いのか?」
「ううん。ちょっと用事があっただけ」
彩世は唇を開きかけ、何を言えばいいのか分からなくなる。
「なんでまた、あんな変な質問するんだよ」
彼は困ったように笑う。
彩世は遮った。
「寒季……もし私が、不治の病だったら。あなた、どうする?」
「……いまどこにいる?」
一気に心配の色が濃くなる。
ちょうど院内の呼び出し音が鳴り、寒季にも届いた。
「病院? 今すぐ行く!」
「違う。友達が具合悪くて、付き添いで来てるだけ」
彩世は親友の名前を口にして取り繕う。
「患者さんを見てたら……なんか思って」
寒季はほっと息をついた。
「考えすぎるな」
「私、前は本当に何も考えすぎなかった。あなたを100%信じてた。でも……」
結局、突きつけられない。真実を言ったあとのことを直視する勇気がない。
「信じてくれ。俺は君を裏切らない。俺が一生でいちばん愛するのは君だけだ」
甘く縋るような声音。
彩世は「うん」とだけ返した。
いちばんは自分でも、二番三番は――いくらでもいるのだろう。
「今夜、予定ある?」
彩世はさらに問う。
「夕飯、一緒に食べられる?」
「夜は海外のサプライヤーと会議があって、遅くなる」
寒季は一切迷わず答えた。用意していた言い訳みたいに。
「会議以外は?」
彩世は本当は知りたかった。凛とどんな夜を過ごすのか。胸の奥を刃物でぐりぐり掻き回されるように痛く、同時に吐き気がした。
「他には何もない。終わったらすぐ帰る」
寒季の声は揺らがない。夜に浮気相手と会う男の気配は欠片もない。
通話を切った途端、彩世は全身から力が抜けた。
「彩世」
診察室の扉がまた開き、林田哲が追ってくる。
「ひとつ案を思いついた」
彼は彩世の迷いを見抜いていた。
「海外にいる先輩がいて……スイスに行けるなら、子どもを守りながら治療できる可能性がある。ただ成功率は30%」
「失敗すれば、君も子どもも助からない」
30%に賭けるか。
それとも産むことを選び、自分の命を完全に捨てるか。
彩世の答えは迷いなく、それでもどこか諦めを帯びていた。
自分が死ねば、この子は寒季に大切にされない。
父を失っているのに、母まで失わせたくない。
「……考える必要はない」
彩世はゆっくり言った。
「海外で治療します。それと……」
焦点が戻る。瞳に涙が滲む。
「出国前に、死亡診断書を作って。国内の人間には――私が死んだことにしてほしいの」
