紹介
その誓いを、異母妹が一通のエコー写真とともに突きつけてきた。彼の子が、彼女の胎内で育っている——と。
三年間の結婚生活。共に築き上げてきたすべてが、その瞬間、音を立てて崩れ去った。
本来なら、その証拠を夫の顔面に叩きつけるべきだった。
だが、その日、医師から告げられた知らせによって、彼の裏切りなど、あまりにも些細なことに変わってしまった。
だから私は、彼が決して予想しえないことを選んだ。
姿を消したのだ。
捜せばいい。狂えばいい。
彼が私を見つけることは、決してない。
チャプター 1
「お姉ちゃん、妊娠したの。お義兄さんの子だよ」
「あなたが3年も結婚して一度もできなかったのに、私は一回でできた。ほんと使えないよね」
病院で、目が眩むほど白く光る妊娠検査の紙を見つめながら、松本彩世はしばらく現実感を失っていた。
妊娠7週。ちょうど新谷寒季が出張に出ていた時期と重なる。
「お姉ちゃん、どうしたの? 黙っちゃって」
松本凛が目の前の長椅子に腰を下ろし、勝ち誇ったように笑う。
「……何が目的なの」
答えは分かっている。それでも彩世は訊いた。喉の奥に何かが詰まったみたいで、声を出すたび耳に膜が張ったように感じる。
「もちろん、新谷奥様の席」
凛は笑みをいっそう濃くする。
「松本彩世、仕事もない、家柄も弱い、子どもも産めない。あなたが新谷奥様って、釣り合うと思う?」
松本彩世は目を閉じた。
「寒季と、ゼロから一緒に築いてきたのは私よ」
その後、新谷寒季は新谷家に認められ、巨大な家業を継いだ。罠にはめられて事故に遭い、植物状態になった時も――彩世がそばで支え、目を覚まさせ、リハビリに付き添い、また頂点へ押し戻した。
「帝都で、お義兄さんがあなたにどれだけ甘いか、知らない人なんていないでしょ」
凛は背もたれにもたれ、足を組む。瞳の底には隠しもしない憎悪。
「ヘリで街の半分飛んで朝ごはん買ってきたって、ニュースにもなった。誰かにいじめられたら、相手の骨が折れるまで殴ったって。界隈じゃ有名だもん」
「でもね……」
声がだんだん尖る。
「その「優しさ」、あなたにできるなら私にもできるの」
「お姉ちゃん。愛されないほうが浮気相手なの」
凛は薄く笑い、言葉に毒を混ぜる。
「昔、あんたの母親が松本奥さんの座を奪われて、その場で飛び降りたでしょ。……だったら、お姉ちゃんもさっさと死んだら?」
「そうだ。今夜、お義兄さんは私と記念日を過ごすの」
凛は妊娠検査の紙をひらひら振った。
「港の花火も、彼が私のために上げてくれる。ニュース、見てね。今夜、妊娠のことも伝えるから」
そう言い残し、松本凛は足取り軽く去っていった。
姿が消えてようやく、松本彩世は強く目を閉じる。涙が二筋、頬を伝って落ちた。
新谷寒季とのトーク画面を開き、上へスクロールする。昨日のやり取りが目に入る。
昨夜も彼のスキャンダルを目にして問い詰めた。返ってきたのは、あの一言だった。
『俺が他の女に目が行くわけないだろ』
そのあと電話をして、寒季は帰宅。履歴はそこで途切れている。
いま彩世は、堪えきれず同じ問いを打つ。
『もし、あなたが本当に「いいと思う人」に出会ったら? その人と行く?』
新谷寒季からの着信が即座に入った。
だが同時に、医師の林田哲が診察室の扉を開け、彩世を呼ぶ。
彩世は唇を噛み、スマホをマナーモードにして歩いた。
「状況が少しまずい。切片の結果、悪性だ」
林田哲は報告書を彩世の前へ押しやる。
「星状細胞腫はかなり厄介だ。僕の提案は――すぐ中絶して、化学療法を始めること。いま妊娠8週くらいだよね?」
「もうすぐ9週です」
彩世は乾いた笑みを浮かべた。
松本凛が寒季の子を授かったのは幸福。
けれど自分が彼の子を宿した瞬間、ついてきたのは癌だった。
息を整え、彩世は言う。
「……もし、下ろさずに産むことを選んだら」
「治療の最後のタイミングを逃す」
林田哲は眉間に皺を寄せた。
「ただ、星状細胞腫の拡散は血液脳関門を越えない。胎児に影響は出ない可能性が高い」
「彩世、子どものために命を捨てるのは勧められない」
――でも、この子も命だ。
彩世は小さくうなずく。
「考えます」
「遅くとも1か月以内に化学療法を始めること。急いで」
診察室を出て、彩世は長く息を吐いた。目の奥に絶望が溜まっていく。
妊娠が分かったのは先週。同じ日に腫瘍も見つかった。
寒季に言えば、きっと子どもを諦めて自分を選ぶ。彼がどれほど自分を愛しているか、彩世は知っている。
けれど二人はずっと子どもを望んでいた。そして凛も妊娠している……。
スマホがまた光る。
彩世はようやく電話に出た。
「彩世」
新谷寒季の声は焦っていた。
「どうして出ない? 具合悪いのか?」
「ううん。ちょっと用事があっただけ」
彩世は唇を開きかけ、何を言えばいいのか分からなくなる。
「なんでまた、あんな変な質問するんだよ」
彼は困ったように笑う。
彩世は遮った。
「寒季……もし私が、不治の病だったら。あなた、どうする?」
「……いまどこにいる?」
一気に心配の色が濃くなる。
ちょうど院内の呼び出し音が鳴り、寒季にも届いた。
「病院? 今すぐ行く!」
「違う。友達が具合悪くて、付き添いで来てるだけ」
彩世は親友の名前を口にして取り繕う。
「患者さんを見てたら……なんか思って」
寒季はほっと息をついた。
「考えすぎるな」
「私、前は本当に何も考えすぎなかった。あなたを100%信じてた。でも……」
結局、突きつけられない。真実を言ったあとのことを直視する勇気がない。
「信じてくれ。俺は君を裏切らない。俺が一生でいちばん愛するのは君だけだ」
甘く縋るような声音。
彩世は「うん」とだけ返した。
いちばんは自分でも、二番三番は――いくらでもいるのだろう。
「今夜、予定ある?」
彩世はさらに問う。
「夕飯、一緒に食べられる?」
「夜は海外のサプライヤーと会議があって、遅くなる」
寒季は一切迷わず答えた。用意していた言い訳みたいに。
「会議以外は?」
彩世は本当は知りたかった。凛とどんな夜を過ごすのか。胸の奥を刃物でぐりぐり掻き回されるように痛く、同時に吐き気がした。
「他には何もない。終わったらすぐ帰る」
寒季の声は揺らがない。夜に浮気相手と会う男の気配は欠片もない。
通話を切った途端、彩世は全身から力が抜けた。
「彩世」
診察室の扉がまた開き、林田哲が追ってくる。
「ひとつ案を思いついた」
彼は彩世の迷いを見抜いていた。
「海外にいる先輩がいて……スイスに行けるなら、子どもを守りながら治療できる可能性がある。ただ成功率は30%」
「失敗すれば、君も子どもも助からない」
30%に賭けるか。
それとも産むことを選び、自分の命を完全に捨てるか。
彩世の答えは迷いなく、それでもどこか諦めを帯びていた。
自分が死ねば、この子は寒季に大切にされない。
父を失っているのに、母まで失わせたくない。
「……考える必要はない」
彩世はゆっくり言った。
「海外で治療します。それと……」
焦点が戻る。瞳に涙が滲む。
「出国前に、死亡診断書を作って。国内の人間には――私が死んだことにしてほしいの」
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三兄:「新薬の開発が遅々として進まないのはなぜだ?」――彼女が治験をしなくなったからだ。
四兄:「どうしてこんなにつまらない脚本しか上がってこない?」――彼女がもう執筆しないからだ。
五兄:「この義肢は、なぜこんなに出来が悪いんだ?」――彼女が製作をやめたからだ。
六兄:「なぜチームが負けた?」――彼女が脱退したからだ。
兄たちは地に膝をついて許しを請うた。「戻ってきてくれ。俺たちこそが、血を分けた本当の家族じゃないか」
彼女は絶縁状を兄たちの顔に叩きつけ、冷ややかに笑った。
「車が壁にぶつかってから、ようやくハンドルを切ることを覚えたのね。株が上がってから、ようやく買うことを覚え、罪を犯して判決が下ってから、ようやく悔い改めることを覚えた。残念だけど、私は――許さない!」
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しかし現実の結婚生活は、私を泥のような惨めな境遇へと引きずり落とした。
夫と息子にとって、私は愛人の飼い犬にさえ劣る存在でしかなかったのだ。
離婚届に淡々と署名する二人の姿を前に、私の心は不思議と静まり返った。
「そう、それでいいわ」
最後に乾いた笑みを浮かべ、私は決別を告げる。
今日で、私たちは正真正銘の赤の他人。
知る前の夜
二日後、インターン先に足を踏み入れると、彼が社長のデスクの向こうに座っていた。
あの夜、私を喘がせた男にコーヒーを運ぶ日々。なのに彼は、まるで一線を越えたのが私のほうだと言わんばかりの顔をする。
***
始まりは賭けだった。終わりは、彼女が決して望んではならないただ一人の男だった。
ジューン・アレクサンダーは、見ず知らずの男と寝るつもりなどなかった。だが、夢にまで見たインターンを勝ち取り、その夜を祝っていた彼女は、勢い任せの無茶な賭けに背中を押され、謎めいた男の腕の中へと導かれる。熱を帯びた気配を纏い、寡黙で、そして忘れられない男。
もう二度と会うことはない――そう思っていた。
ところが初出勤の日、オフィスに入った瞬間――
彼が新しい上司だと知る。
最高経営責任者、その人だったのだ。
たった一夜、無謀に身体を重ねた男の下で働かなければならない。ヘルメス・グランデは権力者で、冷たく、そして絶対に手を出してはいけない存在。けれど二人の間に張りつめた緊張は、どうしても消えてくれない。
距離が縮まるほど、彼女の心と、二人の秘密を守り抜くことは難しくなっていく。
全能令嬢の帰還、家族が倒産?
父は冤罪で獄中にあり、母は病に伏せっている。
六人の兄たちも、ある者は身体に障がいを負い、ある者は無気力に沈んでいた。
そんな折、家に潜り込んでいた偽令嬢は状況を見るや否や一家を見捨てて姿を消し、さらに屋敷までも奪い取ろうとしていた。
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しかし、そんな彼女を指さして嘲る者がいる。
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「しない」
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すると、あろうことかこの二人は、声を揃えてこう言ったのだ。
――本当に深く愛していたのは、私の方だった、と。
ふん、今さら一体、何の真似のつもりかしら。













