妊娠した後、彼が浮気した

妊娠した後、彼が浮気した

水無瀬 · 連載中 · 374.1k 文字

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紹介

夫はかつて誓った。お前は、俺が生涯でただ一人愛する女だと。

その誓いを、異母妹が一通のエコー写真とともに突きつけてきた。彼の子が、彼女の胎内で育っている——と。

三年間の結婚生活。共に築き上げてきたすべてが、その瞬間、音を立てて崩れ去った。

本来なら、その証拠を夫の顔面に叩きつけるべきだった。

だが、その日、医師から告げられた知らせによって、彼の裏切りなど、あまりにも些細なことに変わってしまった。

だから私は、彼が決して予想しえないことを選んだ。

姿を消したのだ。

捜せばいい。狂えばいい。

彼が私を見つけることは、決してない。

チャプター 1

「お姉ちゃん、妊娠したの。お義兄さんの子だよ」

「あなたが3年も結婚して一度もできなかったのに、私は一回でできた。ほんと使えないよね」

病院で、目が眩むほど白く光る妊娠検査の紙を見つめながら、松本彩世はしばらく現実感を失っていた。

妊娠7週。ちょうど新谷寒季が出張に出ていた時期と重なる。

「お姉ちゃん、どうしたの? 黙っちゃって」

松本凛が目の前の長椅子に腰を下ろし、勝ち誇ったように笑う。

「……何が目的なの」

答えは分かっている。それでも彩世は訊いた。喉の奥に何かが詰まったみたいで、声を出すたび耳に膜が張ったように感じる。

「もちろん、新谷奥様の席」

凛は笑みをいっそう濃くする。

「松本彩世、仕事もない、家柄も弱い、子どもも産めない。あなたが新谷奥様って、釣り合うと思う?」

松本彩世は目を閉じた。

「寒季と、ゼロから一緒に築いてきたのは私よ」

その後、新谷寒季は新谷家に認められ、巨大な家業を継いだ。罠にはめられて事故に遭い、植物状態になった時も――彩世がそばで支え、目を覚まさせ、リハビリに付き添い、また頂点へ押し戻した。

「帝都で、お義兄さんがあなたにどれだけ甘いか、知らない人なんていないでしょ」

凛は背もたれにもたれ、足を組む。瞳の底には隠しもしない憎悪。

「ヘリで街の半分飛んで朝ごはん買ってきたって、ニュースにもなった。誰かにいじめられたら、相手の骨が折れるまで殴ったって。界隈じゃ有名だもん」

「でもね……」

声がだんだん尖る。

「その「優しさ」、あなたにできるなら私にもできるの」

「お姉ちゃん。愛されないほうが浮気相手なの」

凛は薄く笑い、言葉に毒を混ぜる。

「昔、あんたの母親が松本奥さんの座を奪われて、その場で飛び降りたでしょ。……だったら、お姉ちゃんもさっさと死んだら?」

「そうだ。今夜、お義兄さんは私と記念日を過ごすの」

凛は妊娠検査の紙をひらひら振った。

「港の花火も、彼が私のために上げてくれる。ニュース、見てね。今夜、妊娠のことも伝えるから」

そう言い残し、松本凛は足取り軽く去っていった。

姿が消えてようやく、松本彩世は強く目を閉じる。涙が二筋、頬を伝って落ちた。

新谷寒季とのトーク画面を開き、上へスクロールする。昨日のやり取りが目に入る。

昨夜も彼のスキャンダルを目にして問い詰めた。返ってきたのは、あの一言だった。

『俺が他の女に目が行くわけないだろ』

そのあと電話をして、寒季は帰宅。履歴はそこで途切れている。

いま彩世は、堪えきれず同じ問いを打つ。

『もし、あなたが本当に「いいと思う人」に出会ったら? その人と行く?』

新谷寒季からの着信が即座に入った。

だが同時に、医師の林田哲が診察室の扉を開け、彩世を呼ぶ。

彩世は唇を噛み、スマホをマナーモードにして歩いた。

「状況が少しまずい。切片の結果、悪性だ」

林田哲は報告書を彩世の前へ押しやる。

「星状細胞腫はかなり厄介だ。僕の提案は――すぐ中絶して、化学療法を始めること。いま妊娠8週くらいだよね?」

「もうすぐ9週です」

彩世は乾いた笑みを浮かべた。

松本凛が寒季の子を授かったのは幸福。

けれど自分が彼の子を宿した瞬間、ついてきたのは癌だった。

息を整え、彩世は言う。

「……もし、下ろさずに産むことを選んだら」

「治療の最後のタイミングを逃す」

林田哲は眉間に皺を寄せた。

「ただ、星状細胞腫の拡散は血液脳関門を越えない。胎児に影響は出ない可能性が高い」

「彩世、子どものために命を捨てるのは勧められない」

――でも、この子も命だ。

彩世は小さくうなずく。

「考えます」

「遅くとも1か月以内に化学療法を始めること。急いで」

診察室を出て、彩世は長く息を吐いた。目の奥に絶望が溜まっていく。

妊娠が分かったのは先週。同じ日に腫瘍も見つかった。

寒季に言えば、きっと子どもを諦めて自分を選ぶ。彼がどれほど自分を愛しているか、彩世は知っている。

けれど二人はずっと子どもを望んでいた。そして凛も妊娠している……。

スマホがまた光る。

彩世はようやく電話に出た。

「彩世」

新谷寒季の声は焦っていた。

「どうして出ない? 具合悪いのか?」

「ううん。ちょっと用事があっただけ」

彩世は唇を開きかけ、何を言えばいいのか分からなくなる。

「なんでまた、あんな変な質問するんだよ」

彼は困ったように笑う。

彩世は遮った。

「寒季……もし私が、不治の病だったら。あなた、どうする?」

「……いまどこにいる?」

一気に心配の色が濃くなる。

ちょうど院内の呼び出し音が鳴り、寒季にも届いた。

「病院? 今すぐ行く!」

「違う。友達が具合悪くて、付き添いで来てるだけ」

彩世は親友の名前を口にして取り繕う。

「患者さんを見てたら……なんか思って」

寒季はほっと息をついた。

「考えすぎるな」

「私、前は本当に何も考えすぎなかった。あなたを100%信じてた。でも……」

結局、突きつけられない。真実を言ったあとのことを直視する勇気がない。

「信じてくれ。俺は君を裏切らない。俺が一生でいちばん愛するのは君だけだ」

甘く縋るような声音。

彩世は「うん」とだけ返した。

いちばんは自分でも、二番三番は――いくらでもいるのだろう。

「今夜、予定ある?」

彩世はさらに問う。

「夕飯、一緒に食べられる?」

「夜は海外のサプライヤーと会議があって、遅くなる」

寒季は一切迷わず答えた。用意していた言い訳みたいに。

「会議以外は?」

彩世は本当は知りたかった。凛とどんな夜を過ごすのか。胸の奥を刃物でぐりぐり掻き回されるように痛く、同時に吐き気がした。

「他には何もない。終わったらすぐ帰る」

寒季の声は揺らがない。夜に浮気相手と会う男の気配は欠片もない。

通話を切った途端、彩世は全身から力が抜けた。

「彩世」

診察室の扉がまた開き、林田哲が追ってくる。

「ひとつ案を思いついた」

彼は彩世の迷いを見抜いていた。

「海外にいる先輩がいて……スイスに行けるなら、子どもを守りながら治療できる可能性がある。ただ成功率は30%」

「失敗すれば、君も子どもも助からない」

30%に賭けるか。

それとも産むことを選び、自分の命を完全に捨てるか。

彩世の答えは迷いなく、それでもどこか諦めを帯びていた。

自分が死ねば、この子は寒季に大切にされない。

父を失っているのに、母まで失わせたくない。

「……考える必要はない」

彩世はゆっくり言った。

「海外で治療します。それと……」

焦点が戻る。瞳に涙が滲む。

「出国前に、死亡診断書を作って。国内の人間には――私が死んだことにしてほしいの」

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***

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「誰が彼女を田舎くさい地味女だと言った? 彼女こそ、俺・諏訪淳行の婚約者だ」

紅蓮が流し目をひとつ送る。

「婚約、破棄しなくていいの?」

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すると、あろうことかこの二人は、声を揃えてこう言ったのだ。
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ふん、今さら一体、何の真似のつもりかしら。