第6章
渡辺春帆は肩で息をしながら、最悪の言葉を刃にして松本彩世へ叩きつけた。
「お前の母親は昔、男を繋ぎ止められなくて、最後は飛び降りたんだろ。お前も同じだ! 新谷寒季が真夜中に出ていく理由、分かってんのか? 凛のところだよ! あいつが欲しいのは凛の若い身体と、凛の腹にいるガキだ! お前なんか何様だ? 子どもも産めない哀れな虫。いつでも叩き出されるゴミ!」
「新谷奥様ヅラして必死に踏ん張ってるけどな、寒季はとっくにお前に吐き気がしてんだよ! そのツラ見ただけで胃がムカつくんじゃないか? 誰にも要らねえゴミは、お前の母親みたいにさっさと死ね!」
リビングに、渡辺春帆の甲高く粘ついた罵声が反響する。
松本智徳は止めなかった。冷えた目で眺めるだけ。渡辺春帆の口を借りて、彩世の心をへし折り、従わせるつもりなのだろう。
けれど――松本彩世は泣かなかった。崩れもしない。
ただ静かに立ち、嫉妬と怒りで歪んだ渡辺春帆の顔を見つめていた。胸に湧くのは、悲しさよりも滑稽さだ。
以前なら、きっと心が裂けた。新谷寒季の裏切りに、息もできないほど追い詰められたかもしれない。
だが今は違う。腹の中には、いつ命を奪ってもおかしくない腫瘍がある。自分の時間は、もうカウントダウンに入っている。
死が怖くないのに、浮気男を失うことが怖いはずがなかった。
「……言い終わった?」
彩世の声はふわりと軽い。けれど、背筋が凍るほど冷たかった。
耳元の髪を指で整え、口元だけで笑う。
「新谷寒季の名前で刺せば、私が泣き崩れるって思ってるの?」
彩世は渡辺春帆をまっすぐ見据え、はっきりと言い切った。
「渡辺春帆、ほんと哀れ。あなたと娘みたいに、男を天だ命だって拝んでる人間ばかりだと思ってる?」
「新谷寒季が松本凛と寝たのが、あなたたちには『栄光』で『札』なんでしょ。でも私から見れば、下半身も管理できないただのゴミ」
ゆっくり、氷の刃みたいに言葉を重ねる。
「汚れた男を宝みたいに奉ってるあなたたちが気持ち悪い。誰を愛そうが、誰といようが、誰を妊娠させようが――私には関係ない」
「いまの新谷寒季は、私にとって何でもない。見る価値すらない。そんなゴミが欲しいなら勝手に持っていけばいい。私の目を汚さないで」
空気が、ぴたりと凍りつく。
その瞬間――
「バン!」
玄関で鈍い爆音が鳴り、扉が蹴り開けられた。冷たい風が怒涛のように吹き込み、リビングの空気を一気に冷やす。
「彩世……今、何て言った?」
陰り切った低い声。怒りを押し殺した、底の見えない声音が入口で響いた。
新谷寒季が立っていた。巨体が光を塞ぎ、影が床に落ちる。
整った顔は暗く沈み、瞳の奥で凶暴な色が渦巻いている。松本彩世だけを、獣みたいに見据えて。
そして、その半歩後ろに――得意げな松本凛がいた。
新谷寒季は大股で歩み寄り、まっすぐ彩世の前に立つ。
「彩世……こいつらに何かされたのか?」
入ってきた瞬間、彼の耳に入ったのは彩世の最後の一言だけだったのだろう。信じられない、という顔。彼女が自分をゴミと呼ぶはずがない、と。
だから結論は一つ。松本智徳と渡辺春帆が追い詰め、言わせたのだ。
「松本智徳――俺の妻に、そんな真似をするのか?」
新谷寒季は彩世を乱暴に抱き寄せ、松本家の夫婦へ視線を投げつけた。刃物みたいに鋭い目。
「誰の許可だ」
広いリビングが、死んだように静まり返る。
新谷寒季の立つ場所だけ、外の凍てつく寒気がまとわりついているみたいだった。黒い瞳に宿る凶気と、上に立つ者の圧が、息を奪うほど重い。
松本智徳と渡辺春帆は、首を掴まれた鳥みたいに固まった。さっきまでの勢いなど跡形もなく、青ざめた顔で新谷寒季を見上げる。
新谷寒季は二人を見ない。腕の中の彩世へ視線を落とす。
「彩世、ごめん。遅くなった」
声だけは柔らかく、指先で彼女の耳元の髪をそっと払う。
松本彩世は背筋を固めたまま、彼の胸から漂う雪松の匂いを吸い込む。――その奥に、刺すような香水の残り香。
挣ねる気も起きない。ただ冷えた目で、その深情の仮面を見つめるだけ。虚しい。
けれど、いま優先すべきは母の手稿を取り戻すこと。
彩世は弱ったふりをして口にした。
「……母の手稿が欲しかっただけなのに。新谷奥様の席を譲れって言われた」
その言葉に、新谷寒季の瞳が一気に冷える。
「松本智徳」
鋭い視線が、松本智徳の顔を切り裂いた。
「彩世の母親の遺品で脅す胆力があるのか? 松本家は――俺に潰されたいのか」
松本智徳の額から、汗が「さっ」と噴き出した。膝が震え、足元が頼りない。
この男の手段を知っている。商売の世界で骨まで喰う。松本家など、蟻みたいに潰せる。
「寒季、誤解だ……」
松本智徳は言葉を噛み、泣き顔みたいな笑みを貼りつけた。
「彩世と冗談で……な、な? 家族じゃないか。春帆、お前も――」
渡辺春帆はソファの陰に縮こまり、必死に頷くだけで声も出ない。
新谷寒季は冷笑した。
「冗談?」
声の温度が消える。
「俺の妻を冗談に使うな。手稿を出せ」
松本智徳は唾を飲み、目の奥に欲がちらついた。
あれは松本彩世の母親が残した、絶版の宝飾デザイン手稿。金になる。投資を引き出す札にもなる。
「寒季、その手稿は松本家のものだ。彩世は嫁に出た身だし、持ち出すのは――」
言い切る前に、松本智徳は腹を括ったふうに口を続けた。
「こうしよう。南区の新区開発、松本家にも一口噛ませてくれ。それさえ叶うなら、手稿は今すぐ……」
