第7章
「俺に条件を出す気か?」
新谷寒季は見下ろすように松本智徳を睨めつけた。死人でも眺めるみたいな、侮蔑を隠しもしない眼差し。
「松本社長も、とうとう耄碌したらしいな。だったら明日の朝一番で、新谷グループは松本家の全プロジェクトへの出資を――全部引き上げる」
一拍置いて、薄い唇が残酷な宣告を吐き捨てる。
「それだけじゃない。松本グループは1週間で、完全に破産清算させてやる」
晴天の霹靂だった。
その言葉が、容赦なく松本智徳の頭頂に叩きつけられる。
「やめろ! 撤資だけは……!」
松本智徳は完全に取り乱した。心の防壁が、音を立てて崩れる。新谷寒季が言ったことを必ず実行する――それを疑う余地などない。手稿ひとつのために松本家ごと心中するほど、彼は愚かじゃなかった。
「出す! いま、いま取ってくる!」
松本智徳は転げるように2階の書斎へ駆け上がった。
3分も経たずに、息を切らして駆け降りてくる。
手に抱えているのは、黄ばんだ分厚い素描帳。彼はそれを恭しく、松本彩世の目の前へ差し出した。
松本彩世はそれを受け取る。指先がわずかに白む。
表紙に残る母の筆跡を、指の腹でそっとなぞった。胸の奥に酸っぱい痛みが込み上げる。けれど、次の瞬間には氷のような冷静さが、すべてを押し沈めた。
――手に入れた。
この家とも、もう終わりだ。
彼女は手稿を胸にきつく抱き、そっと新谷寒季の腕の中から半歩退いた。
取り戻すものは取り戻した。
茶番も、見飽きるほど見た。
松本彩世は冷えた瞳を上げる。新谷寒季の肩越しに視線を滑らせ、玄関口で表情を揺らす松本凛を捉えた。
唇の端をわずかに持ち上げ、笑っているのか嘲っているのか分からない顔のまま、新谷寒季へ向き直る。
「寒季。聞きたいんだけど。さっき、会社で数十億が動く越洋の緊急会議だって言ったよね? どうしてそんなに早く終わったの。しかも――松本凛と一緒に戻ってくるなんて」
新谷寒季の身体が、ほんのわずかに強張った。
松本彩世の澄んだ瞳が、すべてを見透かしているようで。胸の奥に、理由の分からない焦りがちりっと走る。
その様子を見て、松本凛は勘違いした。腹の子がいる以上、彼は自分を守る――そう踏んだのだ。
図太く一歩出て、甘ったるく呼ぶ。
「お義兄さん……」
言いながら、腕に絡みつこうと手を伸ばす。松本彩世の前で、二人の「秘密」を誇示するつもりで。
けれど指先が袖に触れるより早く、新谷寒季は汚物でも避けるみたいに、すっと身を引いた。
「触るな」
声は低く、刺すように冷たい。二人にしか届かない音量で言い捨てる。
「余計なこと言うな」
眼差しは警告そのものだった。
松本凛の手が空中で固まる。血の気が引き、蒼白になった顔で、新谷寒季を見上げた。昨夜、ベッドであれほど優しかった男が――いまは刃物みたいな目をしている。
新谷寒季は松本凛など見もしない。
松本彩世へ向き直った途端、深情の仮面が寸分の隙もなく貼り直される。
「彩世、誤解するな」
声まで柔らかくして、嘘を完璧に織り上げた。
「会議が予定より早く終わった。お前が松本家に来たって聞いて、急いで駆けつけたんだ。彼女は……門のところでたまたま会っただけ。言葉も交わしてない」
――たまたま。
松本彩世の胸の内で、冷笑が鳴る。
愛人と散々いちゃついたあと、わざわざ送り届けて、その帰りに「たまたま」妻と遭遇した。そういう筋書きだろう。
その平然とした嘘の上手さに、むしろ感心する。
松本彩世は暴かない。
ただ黙って見つめた。演技を続ける男を、氷点下の眼で。
しかし、公然と切り捨てられた松本凛は耐えられなかった。
新谷寒季が松本彩世にだけへりくだり、機嫌を取る姿――それが嫉妬の毒蛇となって心臓を噛む。
どうして。
自分は妊娠しているのに。
身重であることを盾にする。新谷寒季が本気で傷つけるはずがない。松本彩世だって、自分には手を出せない。そう高を括って。
松本凛はヒールを鳴らし、数歩で松本彩世の前へ詰め寄った。
唇を寄せ、低く、ねっとりと悪意を滲ませる。
「お姉ちゃん、清いふりして。寒季が本当にあなたを愛してると思ってるの? あなたは知らない――」
「パンッ!」
乾いた平手の音が、広いリビングで炸裂した。
松本凛の毒の囁きが、そこで途切れる。
松本彩世は一言も挟まない。迷いもない。
反手で、全身の力を乗せて叩き込んだ。丁寧に作り込まれた松本凛の頬へ、容赦なく。
速く、重く、鋭い一撃。
積もり積もった嫌悪と吐き気を、すべてそこに叩きつけた。
「きゃっ……!」
松本凛は悲鳴を上げて顔を逸らす。ヒールがつるりと滑り、磨かれた床の上で体勢を崩した。後ろへ、ぐらり。
「お腹……!」
恐怖で声が裏返る。両手が反射的に小腹を押さえ、そのまま倒れかけた。
その瞬間――。
さっきまで松本彩世の隣にいた新谷寒季が、顔色を変えた。
反射みたいに飛び出し、倒れかけた松本凛の腰を抱き止める。腕がきつく回り、しっかりと受け止めた。
「危ない!」
思わず漏れた声には、本人さえ気づかない焦りが滲んでいた。
その手はさらに、無意識に重なる。
松本凛が小腹を押さえる手の上へ、自分の手をそっと被せた。守るように、庇うように。慣れた、丁寧すぎる動きで。
――まるで、至宝を扱うみたいに。
客間が凍りついた。
松本智徳と渡辺春帆は呆然とし、松本凛は新谷寒季の胸に縋ったまま息を乱す。
そして松本彩世だけが、静かに立っていた。
抱き合う二人。
松本凛の腹を庇う新谷寒季の手。
仮面が剥がれ落ちた、むき出しの動揺。
松本彩世は痺れた掌をゆっくり下ろし、新谷寒季の硬い背中を見据える。
顎をわずかに上げ、冷たく掠れた声で刺した。
「寒季……そんなに焦るんだ」
新谷寒季ははっとして、感電したみたいに松本凛を放した。
そして振り向く。顔面がさっと青ざめ、松本彩世を見た。
松本彩世は薄く笑う。眼底に温度は一滴もない。
一語ずつ、きっちりと刻むように問う。
「まさか――松本凛のお腹の子、あなたの子なの?」
