第2章 お姉ちゃん、よく我慢できるね

茅野芽衣は目を閉じ、胸の奥からせり上がる吐き気と痛みを、力ずくで押し込めた。

そして目を開いたとき、杏のように整った瞳には、悲しみも喜びも宿っていない。

立ち上がり、妊娠検査票を丁寧にしまう。

病院を出た芽衣は、都心にある相馬瑛太との家へ戻った。

ここは、かつて幸福の始まりだった場所。部屋の隅々まで彼の愛が反映され、二人の未来への憧れが詰まっていた――はずなのに、今はただ冷たい。

寝室のクローゼットから、精巧なギフトボックスを取り出す。

瑛太と積み重ねてきた記憶と恋の品々を大事にしまった箱。いま見れば、皮肉でしかない。

その一番下に検査票を入れ、ペンを取って、箱の内側に小さく書いた。

「誕生日おめでとう。サプライズは、この先」

三か月後。瑛太の誕生日に、彼の目の前へ――自分の手で届ける。

そのとき、玄関の指紋ロックがカチリと解錠する小さな音がした。

相馬瑛太が帰ってきた。手には上品な紙箱。

城西のフランス菓子店の看板ケーキ――一週間前に予約しないと手に入らない品だ。

「芽衣、顔色悪いぞ。どこか具合でも?」

瑛太の視線が、芽衣の青白い頬に落ちる。

芽衣はもともと身体が弱い。最近は新しい資金調達の件で無理をしている。だがそれも、会社のことを気にしてくれるのは自分のためだと思うと、瑛太は胸が熱くなる。

額に触れようと伸ばした手を、芽衣は自然に避けた。

「平気。ちょっと疲れてるだけ」

わざといつも通りの声を作り、続けて問いかける。

「もう帰ってきたの? 今日は大事な会議って言ってたのに」

瑛太の目が一瞬揺れた。

ケーキをローテーブルに置き、何事もない顔を作る。

「早く終わったんだ。結婚記念日からちょうど一か月だし、小さな記念日ってことでさ。お前の好きなやつ、買ってきた」

最近芽衣がどこか冷たいのは、子どもの話のせいで拗ねているのかもしれない。なら、ちゃんと機嫌を取ってやらないと――瑛太はそう思う。

芽衣は内心で冷笑した。

表情は崩さず、淡々と聞く。

「午後もずっと会社にいた?」

「うん。どうした?」

答えは早い。綻びひとつ見えない。

芽衣は薄く笑った。

「何でもない。午後、美月から電話が来たの」

瑛太の心臓がひやりとする。美月が芽衣に、何を――。

だが顔色は変えずに言った。

「何て? あいつ、親に甘やかされて育ったから口が軽い。適当に聞き流せ」

芽衣の冷えが増す。

瑛太が美月のことを口にするときの、その馴れ馴れしさ。前は気づかなかった。

芽衣は温度のない目で告げる。

「特別なことは言ってない。ただ、明日実家で食事しようって。『いい知らせ』があるんだって」

瑛太の眉が寄る。

美月、何を企んでる。まさか妊娠のことを――。

瑛太は即座に話を切り替えた。

「美月の話はいい。ケーキ食べよう。切ってくる」

そう言ってキッチンへ向かう背中を、芽衣は冷たい目で見送った。

それから音もなく立ち上がり、台所の外へ移動する。

案の定、瑛太は美月に電話をかけていた。怒りを抑えた声。

「なんで急に芽衣を実家に呼んだ?」

――あのとき、美月なんかに惑わされなければ。

瑛太の胸の奥に、鈍い苛立ちが滲んでいる。

電話の向こう、美月が委屈そうに言う。

「お父さんとお母さんが『最近お姉ちゃんに会ってない』って言うから……それで、あたしが連絡しただけ」

瑛太は低く警告した。

「俺の言ったこと、忘れるな。芽衣の前で、余計なことを一言も漏らすな」

美月が泣き声を混ぜる。

「瑛太……そんなにお姉ちゃんが大事? じゃあ、あたしは? この子は? 何とも思わないの?」

瑛太が鼻で笑った。

「俺が愛してるのは芽衣だけだ。お前のものじゃないものを欲しがるな」

ブツリ。通話は切れる。

――芽衣は、すべて聞いた。

憎しみが胸の底で渦を巻き、胃がきりきりと捻れる。

芽衣は口を押さえ、洗面所へ駆け込んだ。

空っぽの胃から酸だけがこみ上げ、喉を焼く。

肩を震わせながら、洗面台にしがみついてえずく。

物音を聞きつけた瑛太が飛び込んでくる。芽衣の様子を見た瞬間、顔色が変わった。

「どうしてこんなに吐くんだ! 病院行くぞ!」

「病院」という言葉が耳に刺さる。

芽衣は表情を強張らせ、瑛太を振り払った。

「行かない!」

瑛太が眉をひそめる。

いつもは従順な芽衣が、こんな強い拒絶をするなんて。何か隠している?

「なんでだ。ここまで吐いてるのに! 食中毒かもしれない。検査しないと――」

芽衣は、自分の反応が強すぎたと気づく。

すぐ声を落とし、落ち着いたふりをした。

「大丈夫。たぶん胃腸炎。もう遅いし……明日も具合悪かったら行く」

瑛太の眉間の皺は消えない。視線が芽衣の腹を一瞬なぞる。

「本当に?」

「本当に」

芽衣は無理やり笑ってみせた。

「資金調達の件で忙しくて、ちゃんと食べてなかっただけ」

瑛太は抱き締める。

「会社のことは俺がいるだろ。無理するな。心配する」

芽衣も抱き返した。押し返したい衝動を飲み込みながら。

そして、何気ない声で切り出す。

「ねえ。そんなに心配するなら、会社の株、私に譲ってよ」

瑛太が目を瞬く。

「急にどうした? 株なんて、今まで気にしたことなかっただろ」

芽衣は瑛太の首に腕を回し、甘えるように問う。

「くれるの? くれないの?」

瑛太は甘やかすように笑い、芽衣の髪に口づけた。

「やる。お前が欲しいなら、全部やる」

「ありがとう、あなた。ほんとに優しい」

芽衣は花が開くように微笑み、瑛太の胸に頬を寄せる。

――けれど、瑛太の見えない場所で。

彼女の目は、凍りついたままだった。

相馬瑛太。今日の言葉、後悔しないといいね。

翌日、芽衣は瑛太とともに茅野家へ向かった。

瑛太が書斎で茅野淳彦と話している隙に、美月が芽衣の腕を掴み、自室へ引きずり込む。

まだ平らな腹に手を当て、美月は悪意を含んだ声で耳元に囁いた。

「お姉ちゃん、よく耐えられるよね。あたしが義兄さんの子、妊娠したって知ってるのに。平気な顔してさ」

芽衣の指がきゅっと握られる。

一歩引き、見下ろした。

「どうしたの? 相馬瑛太が『ハッキリした立場』をくれないからって、私のところで自分の居場所でも確かめに来たの? 恥って知ってる?」

美月の瞳に毒が差す。

「自覚があるなら、身を引けばいいのに!」

芽衣は、喉の奥で笑いそうになった。

「私が引いたら、相馬瑛太があなたを娶るの? じゃあ明日、離婚してあげる。あなたが相馬家の若奥様になれるか、見せてよ」

その言葉が落ちた瞬間、背後で――ガチャン、と重いものが床に落ちて割れる音。

二人が振り向くと、相馬瑛太が陰鬱な顔で立っていた。

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