第3章 下手な演技
相馬瑛太は、二人がさっきまで何を話していたのか聞き取れていなかった。耳に入ったのは、茅野芽衣が「離婚する」と口にしたことだけ。
顔色が、墨を垂らしたみたいに沈む。
自分を深く愛しているはずの妻が、そんな言葉を言うわけがない――信じられない。まして、さっきの芽衣のあまりに平然とした口調が、胸の奥を鋭く抉った。
――本気じゃない。あれは、茅野美月を黙らせるための、ただの言い返しだ。
不安と怒りを喉の奥へ押し込み、相馬瑛太は足早に芽衣のそばへ寄った。
「芽衣、どうした?」
口ではいつも通り、心配する声。
だが視線は、氷の刃みたいに茅野美月へ走り――「余計なことを言うな」と突き刺す。
それ以上に怖かったのは、美月がもう芽衣に何かを漏らしている可能性だ。
芽衣の性格を、瑛太は誰より知っている。もし自分の裏切りを知ったなら、彼女はきっと一番決定的な形で去る。
鍵をかけてでも引き留めることはできる。だが、そんな結末だけは受け入れられない。
芽衣はすでに平静を取り戻し、複雑な眼差しで瑛太を見上げた。
――怖いの? 私が、あなたと美月の醜い関係を知るのが。
だったら、どうして裏切った。
胸の中の波を押し沈め、芽衣は息を整える。
「平気よ。今のは……ただの気の迷い」
まだ、暴く時じゃない。
茅野美月は顔をこわばらせたまま、何も言えない。代わりに、泣きそうな表情で瑛太に縋りつき、言い訳をした。
「お義兄さん、怒らないで。わたし、ただ……お姉ちゃんが羨ましいって言っただけ。こんなにいい旦那さまがいて。そしたら、お姉ちゃんが急に怒っちゃって……」
瑛太は胸をなで下ろしつつも、美月を鋭く睨む。
「次からは、お姉ちゃんの前でそんなこと言うな」
美月の瞳の奥に、どす黒いものが一瞬走る。拳がぎゅっと握り締められた。
――どうして。どうして茅野芽衣みたいなくそ女が、相馬瑛太の愛を全部手に入れてる。子どもを孕んでるのは自分なのに。自分こそが、きちんとした立場のある『相馬夫人』のはずなのに。
死ねばいいのに。
芽衣はその怨毒な視線をまるで見ていないふりをして、床に散らばった割れたカップへ目を落とした。
ゆっくり屈み、欠片を拾おうとした瞬間――瑛太が腕を掴んだ。
「危ない。手を切る。片付けは使用人に任せろ」
芽衣はその手を振りほどき、振り返る。声は静かだった。
「その手に持ってるの、何? 瑛太、どうして美月の部屋にいるの?」
瑛太の身体がぴくりと固まる。だがすぐ取り繕った。
「母さんが言ってた。美月、最近体調が良くないって。医者に出された薬を届けてくれってさ」
芽衣は小さく笑った。冷たい笑い。
「使用人はいないの? あなたが薬を運ぶ必要がある?」
そう言って薬箱を奪い取り、成分と効能を確かめる。
芽衣は張り詰めた瑛太を見上げ、淡々と言った。
「これ、流産を防ぐためのお薬だけど。体調が悪いって……妊娠じゃないの?」
瑛太の手が、身体の横でぎゅっと握られる。
それでも無理に笑みを作った。
「芽衣、考えすぎだ。似たような薬だろ。滋養目的のもある」
同時に、美月へ警告の視線が飛ぶ。
美月は反射的に口を開きかけた。「わたしが妊娠してるのは、お義兄さんの子だ」と吐き出したい。
けれど瑛太の氷のように冷たい目に押され、喉の奥へ飲み込んだ。
次の瞬間、美月は歯を食いしばり、腹を抱えて屈む。瑛太の袖を掴む手に力がこもった。
「お義兄さん……お腹、痛い……!」
芽衣は冷えた目で見ていた。
芝居だと分かる。分からないほど、甘く育っていない。
だが芽衣が言葉を出すより先に、背後から女の声が飛び込んできた。
「美月、どうしたの!?」
茅野淳彦と茅野芳美が、いつの間にか部屋に入ってきていた。二人は芽衣を乱暴に押しのけ、美月へ駆け寄る。
芽衣はよろめいて床に倒れ、掌がガラス片を踏んだ。
ずきん、と鋭い痛み。血がじわりと滲む。
赤く滲む目で顔を上げると、実の両親は美月を囲み、必死の顔で覗き込んでいた。
母の茅野芳美が青ざめて叫ぶ。
「美月、お母さんを怖がらせないで! すぐ救急車を――」
美月は涙を流して首を振り、弱々しく笑った。
「いいの……全部わたしが悪いの。お姉ちゃんを怒らせちゃって……」
その言葉に、父の茅野淳彦が芽衣を睨みつけた。
「芽衣! なんて冷たいんだ。妹はもう十分我慢してるのに、どうしてそこまで追い詰める!」
芽衣は痛みに耐えて立ち上がり、血のついた手を背中へ隠す。声音は氷のように冷たかった。
「勝手に挑発してきたのはそっちよ。私は指一本触れてない」
淳彦は怒りに任せて指を突きつける。
「美月はお前の妹だぞ! お前の代わりに十八年、親孝行もしてくれて――もっと寛容になれないのか。なんでそんなに冷血なんだ!」
「黙れ」
低く、冷たい声が割り込んだ。
相馬瑛太だった。
瑛太は美月の手を振り払い、淳彦に凍るような眼差しを向ける。
「芽衣は俺の妻だ。誰が彼女をそんなふうに言っていいと許した」
淳彦は一瞬で口を閉ざす。恐怖に喉が鳴った。
それでも美月は、なおも瑛太の手に縋りつく。涙を増やし、甘い声で縋った。
「お義兄さん、怒らないで……お父さんとお母さんはただ心配で……わたし……」
言い終える前に、身体から力が抜けた。
美月はふっと意識を手放し、そのまま瑛太の腕の中へ崩れ落ちる。
瑛太の顔色が変わり、反射的に抱きとめた。
美月本人はどうでもいい。だが腹の子に何かあってはならない。
そして芽衣に向け、理不尽な苛立ちまで湧いてしまう。
さっきあんなふうに追い詰めなければ、美月も倒れなかった――そんな思考が、胸を汚した。
瑛太は美月を抱き上げ、足早に部屋を出ようとする。
芽衣は冷たく見ていた。美月の演技が拙いことは、分かっている。
それでも、瑛太が彼女を抱く腕の形を見た瞬間――心臓が、細い針で何度も刺されるみたいに痛んだ。
芽衣は一歩前に出て、行く手を塞ぐ。
「瑛太、彼女は私の妹よ。今のそれ、どういうつもり?」
瑛太は眉を寄せる。
「芽衣、美月がこの状態だ。話はあと。先に帰って待っててくれ」
そう言い捨てるようにして芽衣を避け、大股で去った。
茅野淳彦と茅野芳美も、芽衣を一瞥すらしない。美月に付き添うように、そのまま出ていく。
部屋に残ったのは、芽衣ひとり。
掌の血は止まらず、床にぽた、ぽたと落ちて、濃い赤がじわりと広がっていく。
――それでも。
胸の痛みの、万分の一にも及ばなかった。
