第4章 口紅の跡

中央病院。

茅野の両親と相馬瑛太は、揃って茅野美月を救急へ連れ込んだ。

足音はせわしなく、表情は切迫している。すれ違う人々は事情を察したように、どこか安堵した目を向けた。

――仲睦まじい若夫婦に見えるのだろう。

背が高く端正で、妻を大切にしていそうな男。慈愛に満ちた「両親」。その中心で守られる茅野美月。

家族の幸福を絵にしたような、羨望を誘う光景だった。

――

その頃、茅野家の「本当のひとり娘」は、家でひとり傷の手当てをしていた。

この家に、芽衣は執着が薄い。

冷めた傍観者の目で見れば、両親がなぜ美月をあれほど偏愛するのかさえ、理解できた。

芽衣は十八歳まで孤児院を転々として育った。だから、何事も自分でやるのが当たり前になっている。

甘え方も、頼り方も、身につかなかった。血のつながりを取り戻して何年経とうと、実親にうまく近づけない。

その点、幼いころから育てて、腕の中で甘えさせてきた娘――美月が可愛いのは当然だ。

芽衣はずっと、食べられて学校へ行けるだけで十分だと思ってきた。

けれど、幸運は相対的だ。

自分には親がいた。

その親が、失った娘の穴を埋めるように、別の子を「実の娘」として慈しんできた。

そう知ってしまった瞬間、芽衣の「足るを知る」は、みじめで滑稽な話に変わる。

そして、この家でいちばん芽衣を気にしているのが――「奪われる」と怯える美月だという事実。

芽衣は無表情のまま、鼻で笑った。

……人は身の程を知って、満足するのが大事だという。

芽衣だって、以前ははっきりしていた。両親の愛情を、美月と取り合うつもりなどない、と。

だが、誰かは芽衣を生かしておく気がない。

親も、夫も、人生さえも――根こそぎ奪って、息の根を止めるつもりだ。

「……っ、痛」

薬を塗りすぎたのか、掌の傷がひきつって痙攣し、芽衣は息を吸い込んだ。

包帯をぐるぐる巻き、最後は歯で端を噛んで結ぶ。痛みを押し殺し、無表情のまま指を動かして状態を確かめた。

胸の内は、冷え切っている。

争わないからといって、好き放題させる気はない。

芽衣は、柔らかいだけの人形じゃない。

たとえ、気まぐれに形を変える安っぽい愛なんて要らなくても。

手放す前に――奪われたものは取り返す。

ピロン、とスマホが鳴った。

芽衣は先輩の連絡先を開き、短く打つ。

「先輩。海難の件、どこまで進みました? できれば早めたいです」

もう、演じるのが限界だった。

奴らと上辺だけ笑い合い、吐き気を噛み殺しながら、いつまで「仲良しごっこ」を続ければいい。

先輩はため息まじりに言った。

「そこまで固いのか」

「固いんじゃありません」

芽衣はスマホを握り締める。

「これしか、私が私の人生を生きる方法がないんです。これから先、ちゃんと自分の望む日々を送るために」

仮面の生活なんて、まっぴらだ。

腹の子を、嘘と裏切りの中で育てるつもりもない。

相馬瑛太が裏切った瞬間から、すべて決まっている。

死ぬまで終わらない。

最も惨烈な形で消えて、過去を火で焼き払う。そうしなければ、新しい人生は始まらない。

芽衣の声に宿る決意を汲み取った先輩は、少し黙ってから言った。

「できる限り、力になる」

数本電話を回したあと、先輩は残念そうに続ける。

「ただ、安全のために天候のいいときしか動けない。最近は条件が揃わないんだ」

そして釘を刺すように言った。

「もう少し我慢しろ。チャンスが来たらすぐ連絡する。勝手に動くな。命が出る」

芽衣は眉間を寄せた。

「最近、一度も?」

先輩の声が一段低くなる。

「芽衣、焦るのは分かる。でもこれは遊びじゃない。自分で機会を作ろうなんて考えるな。本当に人が死ぬ」

叱られて、芽衣の目に小さな諦めが走る。

けれど、その叱責には確かな気遣いがあって――胸の空洞が、ほんの少しだけ埋まった気がした。

芽衣は口元を薄く上げる。

「分かってます。そこまで衝動的じゃありません」

数言交わして、電話は切れた。

芽衣の笑みはすぐ消える。

茅野家の別荘を見回し、冷えた視線に嘲りが濃く滲んだ。

これまで芽衣は、ここでは「客」として振る舞い続けた。

だから、この「家」をきちんと眺めたことさえなかったのかもしれない。

今日は耳元で、美月と両親のねちついた釘刺しが響かない。静けさの中で初めて気づく。

――この家は、どこもかしこも美月の痕跡だらけだ。

壁には、幼い頃から刻まれた身長の印。

飾り棚には高価な骨董品、その隣に、幼稚園で作った歪な工作が平然と並ぶ。

賞状も写真も、美月のものばかりが誇らしげに展示されている。

両親の愛情は、惜しみなく美月へ注がれていた。

芽衣の胸は、想像したほど荒れなかった。

ただ淡々と、立ち上がる。

視界に、四人で撮った写真が入った。

芽衣が引き取られた日に、美月がはしゃいで言った――「ずっとお姉ちゃんが欲しかった!」と。

色の抜けた服を着た芽衣が、家族三人の隣で居場所なく立つ。滑稽に凍りついた一枚。

芽衣は立ち止まらず、そのまま車で自宅へ戻った。

深夜になって、相馬瑛太がようやく帰ってくる。

足音を忍ばせたつもりなのだろうが、芽衣は上着を羽織って寝室から出た。

眠気の残る澄んだ目で、ドア枠にもたれて問う。

「遅かったね。美月、そんなに重いの? お義兄さんが付きっきりで?」

近づいた瞬間、酒の匂いが鼻を刺した。

芽衣は眉をひそめ、さりげなく距離を取る。

瑛太の腕が宙で止まり、空ぶったように引っ込む。

「親がついてる。俺は様子見ただけだ。詳しいことは……」

そう言いながらネクタイを緩め、酔いを含んだ足取りで一歩詰める。

そして有無を言わせず、芽衣を抱き寄せた。唇が耳元をなぞり、甘く擦りつける。

「せっかく帰ってきたんだ。関係ない人間の話はしたくない」

首筋がくすぐったい。

――けれど芽衣の胃の底から湧いたのは、嫌悪だった。

美月と絡む姿が脳裏をよぎる。

汚い。

芽衣は頭痛を理由に押し返しながら言った。

「酒臭い。先に洗って――」

言い終える前に、芽衣は瑛太の襟を掴んだ。

指先が、ぴたりと止まる。

「……これ、なに?」

そこには鮮やかな唇の跡。

しかも、挑発するみたいに「ピエロ」の形に描かれている。芽衣に向かって、威嚇するように。

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