第3章 家を離れて前へ進む、振り返らない
藤井修也は重厚な社長机の奥に座り、その向かいに女が立っていた。少し前、ゴシップで名前が出た三流女優――白石莉緒。
立花結月が芸能界を退いたころ、白石莉緒はまだ端役の端役で、現場を走り回っていたはずだ。
それが今、藤井修也のオフィスにいる。
白石莉緒の姿を認めた瞬間、藤井修也の瞳の奥に、はっきりとした動揺が走った。反射的に机の上の書類を引っ込めようとする。
嫌な予感が胸を刺し、結月は低く言った。
「動かさないで」
早足で近づくと、白石莉緒が怯えたように声を震わせる。
「結月さん、誤解しないでください。私、ただ……」
結月は彼女の顔すら見ないまま、机の上の紙を掴み上げた。
――妊娠検査の報告書。
白石莉緒、妊娠7週。胎児心拍確認。
細部が、津波みたいに脳内へ押し寄せる。あの写真のぼやけた背中。昨夜、彼が口にした『もし俺が間違いを犯したら』という言葉。
全身が氷の底へ沈み、足が床に縫い付けられた。
結月は報告書を握り潰しそうな力で掴み、藤井修也の底なしの黒い瞳を見上げる。声が震えた。
「……この子、あなたの?」
この瞬間だけは、考えすぎであってほしかった。あれほど自分を愛した男が、こんな馬鹿げたことをするはずがない――。
藤井修也が口を開く前に、白石莉緒が勝手に答え始める。
「結月さん、責めるなら私を責めて。藤井さんは――」
言い終える前に、乾いた音が響いた。
「――っ」
結月の平手が、白石莉緒の頬を打った。
涙は溜まっているのに落ちない。喉の奥の詰まりを必死に押し殺し、結月は低く言い切る。
「私の夫だと知ってて割り込んだ。……その一発は当然」
藤井修也は庇う素振りすら見せず立ち上がり、白石莉緒を一瞥した。
「先に帰れ」
結月は無闇に騒ぐタイプじゃない。浮気相手が悪いのは当然でも、片手で鳴る拍手はない。だからそれ以上、白石莉緒を追い詰めなかった。
視線は藤井修也の整った顔へ落ちる。
二人はスラム街で一緒に育った。彼は品行方正で成績優秀な優等生。彼女は顔ひとつで芸能界を駆け上がった。
命を削るみたいに仕事を取り、彼の夢を支えた。子宮を傷めても、目を覚ました彼女に藤井修也は真っ先にプロポーズした。
彼女が大きく売れ、彼の会社も右肩上がり。
結月はトップ女優の座を掴んだその日に芸能界を去り、隠し妻として彼の背後に立つことを選んだ。彼の背中を支える小さな妻でいればいい、と。
二人は心を通わせ、愛さえあればどんな困難も乗り越えられると信じていた。
なのに、富と地位を得たあとで――彼は裏切った。
結局、彼も俗を免れない。
頬を伝って、涙がゆっくり落ちる。滲む視界の中、藤井修也は引き出しから一冊の契約書を取り出し、差し出した。
「結月。子どもは俺のだ。でも、彼女には触れてない。読めばわかる」
契約書には、はっきり書かれていた。白石莉緒が子どもを産めば、二千万円と宣伝資源を提供する――。
藤井修也は続ける。
「俺は精液サンプルを提供しただけで、体外受精だ。彼女を選んだのは……君に五分似てるから」
「君の卵子を使うことも考えた。でも君の体じゃ採卵は痛すぎる。子宮も傷めてる。着床できるかもわからないし、できても流産の危険がある。苦しんだ挙げ句、子どもまで失うなんて……俺は見ていられない」
そう言いながら、藤井修也は結月の手を取った。声は優しい。
「結月。俺と彼女は取引だけだ。産んだら彼女は消える。子どもは俺たちが育てる。……昔みたいに、戻ろう。な?」
「――っ!」
乾いた音が、もう一度。
結月の平手が、今度は藤井修也の頬を打った。
「藤井修也。あなたと他の女の子を、私が自分の子みたいに育てられると思ってるの?」
「付き合ってる頃から言ったよ。もし他の人を好きになったなら、必ず教えてって。私の愛は燃え上がることも、穏やかに続くこともできる。でも、浮気だけは無理」
藤井修也の冷たい眉目に焦りが滲む。言い訳が、息をつく間もなく重なる。
「浮気じゃない。心にいるのは最初から君だけだ。現場に行ったのも望んでじゃない。腹が痛いって言われて、様子を見ただけだ」
結月は口元に嘲りを浮かべた。
「じゃあこの九か月、彼女が何か言えば電話一本で駆けつけるの?」
「もう二度としない。結月、俺は……子どもが欲しかっただけだ」
彼がどれほど子どもを好きか、結月は誰より知っている。だからこそ全てを捨て、二人の子を授かろうとした。
今、彼女にも子どもがいる。なのに彼は、他の女にも子どもを作った。
神様は、あまりにも残酷な冗談を彼女に投げつけた。
結月が目を閉じて泣くと、藤井修也は痛ましげに抱きしめる。
「結月……本当に触れてない。体も心も君のものだ。許してくれ」
結月は目を開き、静かに問う。
「……私が、彼女のお腹の子を下ろせって言ったら?」
藤井修也は固まった。沈黙が答えだった。
結月は続ける。
「本当に私を愛して、結婚を続けたいなら、その子を下ろして。そうしたら今日のことはなかったことにする」
十八年を無駄にしたくない。友情から恋へ、そして家族へ。
間違えた人間には、一度だけやり直す機会があるはずだ。
外を片付けてくれるなら――彼女は、自分も妊娠していると告げるつもりだった。
だが藤井修也は、はっきり言った。
「結月……この子は、俺にとって大事なんだ」
結月は笑った。涙を頬に残したまま。
抱擁から抜け出し、乱暴に目尻を拭う。声は冷たく、決定的だった。
「藤井修也。二兎を追う者は一兎をも得ず。私は裏切りを許せない。あなたはその子を手放せない。なら私は身を引く。……離婚しよう」
藤井修也が手首を掴む。
「あり得ない。俺は絶対に離婚しない、俺は――」
結月は指を一本ずつ外し、俯いた。声は軽いのに、重い。
「藤井修也。私はチャンスをあげた」
白石莉緒の検査票を、彼の顔へ叩きつける。紙の縁が頬を切り、血が滲んだ。
それでも結月は一度も振り返らない。背を向けて、出ていった。
藤井修也は追って家まで戻り、結月は寝室へ直行して荷物をまとめ始める。
家の隅々に目を走らせるたび、心臓が痛む。ここには二人の思い出が詰まっている。
結月はゆっくり指輪を外し、黒いベルベットの箱へ落とした。涙がじわりと染み込む。
藤井修也が手を押さえる。
「結月……ここまでやるのか? 俺は浮気してない。気持ちも変わってない。俺がどれだけ君を愛してるか、知ってるだろ」
結月が見上げると、彼の目には血走った赤が浮いていた。
いっそ、もっと悪い男ならよかった。そうすれば迷わず去れたのに。今は胸が裂ける。
深情を自分の手で埋め、いちばん脆い場所に何度も刃を突き立てる。
掠れた声で言う。
「藤井修也。間違えた人は、罰を受けるべき」
普段着を数枚だけ鞄に詰め、深秋の夜にスーツケースを引いて外へ出た。
藤井修也が車のそばで遮る。
「俺に会いたくないなら俺が出ていく。……君は一人でどこへ行く?」
思い出だらけの部屋にいれば、一秒一秒が拷問だ。彼の良さばかり思い出して、心が折れる。
結月は唇を噛み、首を振った。
「心配しないで。子どもじゃない。馬鹿なことはしない」
彼の指を外し、言った。
「……お互い、冷静になろう」
そうして車に乗り込み、ドアを閉め、エンジンをかける。
背の高い男が道端に立つ。愛してやまない瞳に痛みが満ち、声が追ってきた。
「結月……君、離れないって言っただろ」
昔なら、迷わず抱きついていた。
結月は止まらない。藤井修也が見えなくなった瞬間、涙が決壊し、止められなくなった。
爪がハンドルの革に食い込む。彼女は何度も自分に言い聞かせる。
――前へ。振り返るな……。
