第5章

 翔真の浮気発覚から、八年住んだ家を出るまで。十五年の想いが、わずか十数時間で幕を閉じた。

 裏切りを確信した瞬間、家に引き返して彼を問い詰め、頬を張り飛ばし、なぜこんなことをしたのかと叫びたい衝動に駆られたのは事実だ。

 自分に至らない点があったのかと自問し、なぜ翔真も朱里もあの女の味方をするのかと悩みもした。

 十五年という歳月だ。苦しくないわけがない。

 一番辛い時は、死んでしまいたいとさえ思った。

 だが冷静になれば、それがどれほど愚かなことか分かる。

 私が死んで何が変わる?

 翔真は数日悲しむふりをするかもしれないが、すぐに堂々と葉月と一緒になるだろう。

 彼女を妻として迎え入れ、私が整えたあの家に住まわせるかもしれない。

 それは解放ではなく、自分の命を使って彼らを祝福するようなものだ。

 なぜ他人の過ちのために、私が自分を傷つけなければならないのか。

 翔真はおそらく、長年隠していた本性をようやく現しただけなのだ。

 朱里に関しては、遺伝子の恐ろしさを痛感するしかない。彼女は父親の本質をそのまま受け継いでしまった。

 遺伝というなら、翔真の父親の代から始まっていたことなのだろう。

 私はスマホの電源を入れたまま、翔真が帰宅して離婚届を見つけ、電話してくるのを待った。

 夜の八時になって、ようやく着信があった。

 電話に出ると、向こうから聞こえてきたのは荒い息遣いと、ベッドが軋む音だった。

「翔真……」葉月の声は、甘ったるく、芝居がかっていた。「今日はずいぶん情熱的ね」

「お前に会いたかったからさ……」翔真の声には欲望が滲んでいる。

 誰が電話をかけてきたのか、瞬時に理解した。

 これは葉月からの挑発だ。

 おそらく翔真は、通話状態になっていることに気づいていない。

「ねえ、いつになったら紗英と別れてくれるの?」葉月がわざと声を張り上げる。

 翔真の声が急に冷めた。

「何度も言わせるな。離婚はしない」

 その口調には明らかな苛立ちがあった。

 電話は慌ただしく切られた。葉月は墓穴を掘ったのかもしれない。ベッドの上でさえ、翔真が彼女を喜ばせるために「離婚する」とは言わなかったことが計算外だったのだろう。

 実はここ二年ほど、夜の営みの最中に、翔真は何度も私にこう言っていた。

「紗英の肌は柔らかすぎて、壊してしまいそうで強くできないよ」

 そして終わった後は必ず私を抱きしめ、愛を囁いた。「紗英、愛してる。お前を大切にするよ」

 今思えば、彼は突然変わったのではなく、すべて計画的だったのだ。

 あの言葉を囁いている時ですら、彼は外で獣のような情事に耽っていたのかもしれない。

 これ以上思い出したくない。

 他の女を抱いた体で、私に触れていたなんて。

 強烈な吐き気が込み上げる。

 窓の外が白み始め、太陽が昇る。

 新しい一日が始まった。

 私は身支度を整え、いつもより早く出社した。

 離婚するにしても、仕事と生活は続けなければならない。

 一週間の休暇明けで、デスクには書類が山積みになっていた。

 取引先の篠原真理と業務の打ち合わせを終えると、彼女が尋ねてきた。「紗英さん、箱根はどうでした? リフレッシュできました?」

 私はモニターを見つめたまま、キーボードの上で指を止めた。

 数秒後、短く返信した。「ええ、まあね」

 真理からすぐにメッセージが来る。「今日ランチに行きましょうよ! 久しぶりだし、旅行の話聞かせてください!」

 断ろうかと思ったが、一人でいると記憶の渦に飲み込まれそうだったので、誘いを受けることにした。

「わかったわ」

 仕事を始めて三十分ほど経った頃、スマホが鳴った。

 翔真だ。

 インスタグラムの落とし物投稿を見たのか、それとも葉月が私の電話にかけたことに気づいたのか。

 深呼吸をして、通話ボタンを押す。

 受話器の向こうから、翔真の焦りきった声が飛び込んできた。

「紗英! 説明させてくれ! 誤解なんだ、俺と葉月先生は何の関係もない!」

「あの下着は、たまたま忘れていっただけなんだよ。雨に濡れた彼女を、朱里がどうしてもって家に上げて、シャワーを貸して着替えさせたんだ。知ってるだろ、朱里は彼女に懐いてるから、子供の頼みを断れなくて……」

 私は静かに聞きながら、口元だけで冷たく笑った。

 この期に及んで、まだ私を馬鹿にしている。

 私が人を見る目がなかったのか、それとも彼の演技力がアカデミー賞級なのか。

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