第4章
葉夜視点
数人の警官が一斉に飛びかかってきて、俺はあっという間に地面に押さえ込まれた。
逃げられないようにと、わざわざ手錠まで掛けてくる。
警官は、砂浜に転がるチンピラどもをぐるりと見回したあと、俺が助けたあの小柄な女に視線を向けた。
「通報したのは君か?」
「はい」
女はそこでようやく声を詰まらせ、いかにもか弱そうに言う。
「すぐに来てくださって、ありがとうございます」
警官は女を見、それから地面に伸びているチンピラを見て、信じられないといった顔になった。
「これ全部、君がやったのか?」
「いいえ」
そこでようやく女は俺のほうを見た。ちらりと一瞥しただけで、怯えたふりをして警官に説明する。
「倒したのは彼です」
「つまり、彼が君を助けたってことか?」
「そうです」
女は答え、さらに泣き声を混ぜて付け足した。
「彼は私を助けたあと、私に痴漢行為をしました!」
目の前で、こいつは顔色ひとつ変えず、実に堂々と嘘を吐いた。
思わず俺は興味深そうに眉を跳ね上げる。
さっきチンピラどもを前にしたときもそうだ。震えているふりをしながら、その裏では器用に縄を解き、こっそりメスを握っていた。
この女……なかなか面白い。
「話は彼女の言っているようなものじゃない」
思考を引き戻し、俺は警官に説明しようとする。
「俺はわざと痴漢したわけじゃない。ただの――」
「自分を痴漢だと認める痴漢はいませんよ」
警官は俺の言葉をばっさりと切った。
「続きは署で聞きましょう!」
通報者である女も、当然ながら同行ということになった。
俺たちはパトカーの中で向かい合う形で座ったが、女は車に乗るなり、ぷいと顔を窓の外へ向けた。
俺は口の端を上げる。
今日は退屈せずに済みそうだ、と心の中でほくそ笑んだ。
篠川家の当主として成人してからというもの、毎日のように女が俺に群がってくる。
いつだって女たちは、俺を利用しようとし、できることなら俺と関係を持ちたがった。
これまでは、女のほうが俺に色目を使い、俺に触れようとしてくる一方だった。
だが今日は、女のほうから「痴漢された」と叫び、俺が彼女に手を出したと騒いでいるのだ。
しかも十分前、その女を助けたのは、この俺。
恩知らずな悪女。
だがこの悪女が、どうしようもなく俺を惹きつける。
こんな感覚は初めてだ。
こいつは一度ならず、俺の予想を裏切ってみせた。
最初はか弱い子羊だと思ったが、メスを握ったあの目は、飢えた狼のように獰猛で。
救いを待つ清純派かと思えば、振り返りざまに俺の顔面へ拳を叩き込んでくる――棘だらけの薔薇のような女。
いや。
正確に言うなら――こいつはケシの花だ。
危険であればあるほど、目が離せない。
俺は女の横顔を盗み見ながら、警察署でどんな驚きを見せてくれるのか、期待を膨らませていた。
三十分ほどして、俺たちは署に連行され、別々の取調室へ放り込まれた。
「どうして妃那に嫌がらせをした?」
警官が書類をめくりながら訊ねてくる。
「妃那、っていうのか」
俺は小さく呟き、その名前を口の中で転がす。
「ふざけないでください。今は正式な取調べ中ですよ」
警官の声が一段と厳しくなる。
俺は肩をすくめた。
「悪いな、ポリス。俺は妃那に嫌がらせなんてしてない。ただの小さな事故だ」
「事故?」
警官は露骨に胡散臭そうな目を向けてきた。
俺は淡々と説明する。
「彼女が砂の窪みに足を取られて、前のめりに倒れそうになった。だから引き上げようとしたら、逆に引っ張られて――その拍子に、たまたま手が胸に当たっただけさ。すぐに退けたし、カップ数すら分からなかった」
「これを痴漢と言うのか?」
当然、警官たちはそんな都合のいい話を信じるはずがない。
「言い逃れですね」
とでも言いたげに目配せし、揃って俺の言葉を否定した。
「はぁ……」
俺は背もたれにだらしなく身を預け、脚を組む。
「面倒だな。勝康署長を呼んでくれ」
「署長を知ってると?」
俺は口の端をつり上げ、親切心から名乗ってやる。
「俺は篠川葉夜だ」
その一言で、目の前の警官たちの顔色が一変した。
「し、篠川家の現当主、ですか?」
それ以上、俺は何も言わなかった。
警官たちは慌てて電話を掛け始め、リスクを取る気はさらさらないらしい。
五分も経たないうちに、勝康が自らやって来て、俺を取調室から連れ出した。
彼は道すがらぺこぺこと頭を下げ続ける。
「大変申し訳ございません、葉夜さん。部下の不手際で、まさかあなたを――」
「彼女はいつ出す?」
俺はその謝罪を途中で切った。
勝康は一瞬きょとんとし、それからすぐに意味を悟る。
「ご心配なく。すぐに! ただちに手配いたします!」
俺は顎をしゃくってやった。
「行け」
勝康は媚びた笑みを浮かべると、直々に妃那を連れてきた。
俺が待っているとは夢にも思わなかったのだろう。
姿を見た瞬間、妃那は目をまん丸に見開いた。
「な、なんであんたが出て来てるのよ!」
勝康は俺の素性を説明しようとしたが、俺が一睨みすると、慌てて口をつぐんだ。
俺は妃那へ歩み寄り、その手首を掴むと、そのまま引きずるように署の外へ向かう。
「離しなさいよ!」
背後で女が怒鳴る。
俺は足を止めず、振り返りざま悪戯っぽく笑ってみせた。
「また警察に俺を捕まえさせるか?」
妃那は言葉を失う。
その反応があまりにも愉快で、俺はますます機嫌が良くなった。
そのまま警察署の外まで連れ出し、壁に押し付けるようにして、彼女を腕の中へ閉じ込める。
「いい? 変なことしたら承知しないから!」
こいつは先に釘を刺してきた。
「私は簡単に舐められる女じゃないわよ!」
「どれくらい“舐められない”のか、興味が湧くな」
俺は笑いを含ませながら、ぐっと距離を詰める。
彼女がまた、こっそりと手を動かそうとした瞬間――
俺は素早く、そして的確に、その手を包み込んだ。
どれだけ引っ張っても抜けないらしく、何度か試したあと、妃那は悔しさに目尻を赤くして、俺を睨み上げる。
俺はたまらず笑い声を漏らした。
「子猫ちゃん、もう引っかかないのか?」
「何が目的なのよ!」
彼女は剣呑な声音で問い詰めてくる。
「そんなに噛みつくなよ」
俺は指先で彼女の手のひらを揉む。
また刺し殺さんばかりの目つきで睨まれたので、肩を揺らして笑った。
「ただ聞きたかっただけだ。俺が悪い奴らを全部ぶっ飛ばしてやったのに、どうして子猫ちゃんは、恩を仇で返す真似をしたんだ?」
「だって私は、恩知らずの悪女だもの!」
彼女は開き直って言い放つ。
「助けてくれなんて頼んでないわ。勝手に助けたあんたが悪いのよ!」
俺はその徹底した恩知らずぶりに、逆に笑わされてしまった。
「恩知らずをそこまで誇らしげに言う奴、初めて見た」
「なら、見識が広がったことに感謝しなさいよ」
妃那は間髪入れずに返す。
「いいね」
俺も負けずに言った。
「礼として、この身を捧げてやる」
「それを世間では“恩を仇で返す”って言うのよ」
「君に教わった」
「学費の支払いは忘れないでね」
「悪いが現金は切らしててな。体で払う」
と、俺は平然と話を元に戻す。
妃那はとうとう堪忍袋の緒を切ったようだ。
「いい加減にしてくれない!」
「君が俺の問題を片付けてくれるなら、この退屈なやり取りもすぐに終わる」
俺は穏やかに告げる。
彼女は大きく息を吸い、怒りを押し殺しながら言った。
「その“問題”とやらを言いなさい」
認めざるを得ないが、彼女の顔立ちと中身のギャップは強烈だ。
見た目はおとなしく、精巧な人形のよう。
だが実際は、導火線の短い爆弾。
特に、この野性味と従順とは程遠い態度が、俺の心を一番かき乱す。
俺は、今にも口づけたくなる衝動を押さえ込み、真顔を作った。
「俺は君を助けた。君は礼を言わない。まあそれはいい。君は助けを求めてなかったし、俺のほうが勝手に首を突っ込んだだけだからな。だが、俺を汚した罪――その償いをどうするつもりだ?」
「フッ」
妃那は挑発的に眉を上げる。
「さっきも言ったでしょ。私は立派な悪女。羞恥心なんて持ち合わせてないの。償うわけないじゃない」
俺はそんな彼女の姿が、どうしようもなく好きだった。
心臓が早鐘を打ち、血が全身を駆け抜けるのをはっきりと感じる。
胸の奥が熱くて、吐き出す息まで燃え上がりそうだ。
「奇遇だな」
声の震えを隠しきれないまま、俺は続けた。
「俺はとことん根に持つ性格でね。償う気がないなら――俺の彼女になってもらうしかない」
妃那は鼻で笑う。
「私は法医よ。彼女になんてなったら、夜中にあんたを解剖しちゃうかもね」
「ベイビー、君の手で解剖されるなら……」
俺はずっと触れたかった、陶器のように白い耳たぶへ指先を伸ばした。
「きっと最高の気分だろうな」
ついに彼女の表情が崩れ、呆れと怒りを混ぜた目で俺を睨みつける。
「この、頭のおかしい変人!」
俺はその耳たぶをくわえ込み、囁くように耳元で笑った。
「だからさ。狂った同士は、一緒になるべきなんだよ」
