紹介
救いの手を差し伸べたのは謎めいた男・葉夜(かなや)だったが、彼の真意は読めない。
一方、妃那の宿敵であり自信家の祈葉(いのか)は、自らの美貌と魅力を武器に黒社会の頂点を目指すが、
思いもよらぬ残酷な試練に追い込まれていく。
誤解と嫉妬、愛と憎しみが絡み合い、
それぞれの思惑がやがて一つの危険な運命へと収束していく――。
チャプター 1
妃那視点:
ビーチは人であふれ、ざわざわとした熱気に包まれていた。
金彦が、そんな喧噪のまっただ中で、私の目の前に片膝をつく。
プロポーズの姿勢のまま、まっすぐこっちを見上げている。
周りでは、友人たちが口々に歓声を上げていた。
「やっとだな。妃那と金彦、付き合って五年目にして、ついにこの日が来たか!」
「両家の結婚話なんてとっくに決まってんだし、プロポーズなんて儀式みたいなもんだろ。妃那が断るわけないって」
「だよなあ。妃那がどれだけ金彦にベタ惚れか、知らない奴なんていないし。今日のプロポーズ、心の中じゃ嬉しさでぶっ倒れそうになってるはずだぜ!」
「ほら、早くオーケーしろよ! 返事! 返事! 返事!」
「……」
四方八方から飛んでくる冷やかしに、顔が一気に熱くなる。
確かに、私はこの日をずっと待っていた。
もうこれ以上、変に澄ましてる必要なんてない。
私は喜びを隠さず、金彦へと右手を差し出した。
指を少し曲げて、そこへ指輪をはめてほしいと、黙って促す。
「あなたのプロポーズ、受けるわ」
彼を見つめたまま口を開く。
「これからは、ちゃんと私を大事にして。怒らせないこと、悲しませないこと、それから――」
最後まで言い終わる前に、甲高い着信音が、空気を裂くみたいに割り込んできた。
耳慣れた、独特の着信音。
私は思わず唇をきゅっと結ぶ。
分かってる。祈葉だ。
金彦がポケットからスマホを取り出す。
画面には、思ったとおりの名前が表示されていた。
その瞬間、彼の顔から余裕の色が消え、代わりに露骨な心配が浮かぶ。
慌てたように指が通話ボタンへ伸びた。
「金彦」
私はその手を押さえ、首を横に振る。
「今は、すごく大事な時なの。お願い、彼女からの電話、出ないで」
金彦は眉間に皺を寄せた。
「妃那、祈葉は体が弱いんだぞ。お前だって知ってるだろ? あいつは気の利く、いい子なんだ。用もないのに、俺の邪魔なんかするわけない。そんな祈葉が電話してくるってことは、何かあったに決まってる。頼むから、駄々をこねないでくれ」
一気に、頭の中で血が沸騰する音がした。
「あなたは私の彼氏でしょ! 祈葉のじゃない!」
気づけば、声が震えていた。
「普段なら我慢する。でも今日は、私にプロポーズしてる最中なのよ! また私を置いて、彼女のところに行く気なの?」
「妃那、どうしてそこまで物分かりが悪いんだ?」
金彦は冷たく言い放ち、私の手を振り払う。
そのまま、突き刺すような視線を向けてきた。
「忘れるな。祈葉があんな体になったのは、お前のせいなんだぞ。今俺は、お前の代わりに償ってるんだ」
そう言い捨てて、彼は少し離れた場所へ足早に移動した。
さっきまで私に向けていた冷ややかな表情は、電話が繋がると同時に、嘘みたいに柔らかく崩れていく。
「祈葉、どうした?」
すっかりトーンを落とした優しい声。
『金彦……うっ……車に轢かれちゃって……どうしたらいいか分からないの……私……死んじゃうのかな……』
静まり返ったビーチに、祈葉の心細い泣き声が、はっきりと響き渡る。
金彦は慌てふためいたように声を張り上げた。
「すぐ行く! なあ、泣くなよ。怖がらなくていい、俺がついてる。絶対に大丈夫だから!」
彼は慌ただしく通話を切ると、私には一言の説明もなく、くるりと踵を返した。
あまりにも急いでいたせいで、私に贈るはずだった婚約指輪が、ポロリと地面に落ちたことにも気づかない。
私は、その指輪が彼の足元へと転がり、更にその足に無造作に蹴り飛ばされるのを、呆然と見つめていた。
胸の奥が、チクリと痛む。
まるで、蹴り飛ばされたのが私自身みたいで。
人混みの外へ出ようとする彼の背中が、小さくなっていく。
もう堪えられなかった。
「金彦! 待ちなさい!」
彼はあからさまに不機嫌な顔で、横目だけこちらに向ける。
「妃那、いい加減にしろよ!」
「いい加減にしなきゃいけないのは、そっちでしょ!」
私は歯を食いしばり、喉が張り裂けそうなほどの声で叫んだ。
「私は、あなたが祈葉のところに行くの、絶対に許さない!」
冷ややかな眼差しが、真っ直ぐ私を射抜く。
しばらく黙り込んでから、彼は薄い唇を開いた。
「妃那、祈葉は交通事故に遭ったんだ。いつ死ぬか分からない状況かもしれない。それなのに、お前はまだ焼きもちを焼いてるのか? 祈葉はお前の家族でもあるんだぞ。どうして、そこまで冷たいことが言える?」
私が冷たい? 私が、酷い?
ただ、彼を行かせたくないだけなのに。
その気持ちを「残酷」だなんて、ずいぶん簡単に言ってくれる。
胸の痛みは、一層激しくなった。
私は拳を握りしめる。
「今日、どうしても行くつもりなのね?」
「お前の癇癪に付き合ってる暇はない」
吐き捨てるように言うと、彼は大股で歩き出した。
私は、その背中に向かって叫ぶ。
「金彦! 今日もし祈葉のところへ行くなら、私たちの関係は、これで完全に終わりだから!」
金彦が口を開く前に、彼の親友である大地が笑いながら割り込んできた。
「妃那、その冗談はねえだろ。お前がどれだけ金彦を好きか、みんな知ってるんだぞ? 金彦なしじゃ生きていけないくせに。引き止めたいからって、そんなバカな嘘つくなんて、笑わせんなよ!」
「ハハッ、ほんとそれ」別の友人が下品に笑う。
「何年も金彦の後ろを追い回して、まるで犬みたいだったよな。飼い主が犬を捨てる話はよく聞くけどさ、犬が飼い主を捨てる話なんて、聞いたことねえよ!」
「そうそう。金彦だって言ってたじゃん。『あいつは俺が飼ってる犬より懐いてるから、絶対離れない』ってさ。別れるわけないって!」
あまりにも品のない言葉に、さすがの金彦も顔をしかめ、彼らを制した。
「おい、その辺にしとけ」
そして、私の方を向き、なだめるように言う。
「怒ってるからって、変なこと言うなよ、妃那。全部、俺が戻ってきてから話そう」
「私が犬より懐いてる、って言ったの?」
自分でも驚くほど低い声が喉から漏れる。
「あなたの目には、私って、あなたから離れられない犬にしか見えてないの?」
金彦は、うんざりしたように眉を寄せた。
「友達の冗談を、真に受けるなよ」
「あれが冗談? あれは、侮辱よ」
「お前が神経質すぎるんだ!」
金彦は声を荒らげた。
「冗談をいちいち本気にしてどうする。いつまでもお前に構ってる時間はないんだ、祈葉が待ってる。俺は――」
「行ったら、本当に別れる。さっき言ったの、冗談じゃないから」
繰り返して告げた私の言葉に、金彦もとうとう堪忍袋の緒が切れた。
「勝手にしろ!」
吐き捨てるように怒鳴る。
「祈葉に嫉妬するのもいい加減にしろよ! 少しは頭冷やして、自分の言動を反省しろ!」
冷ややかな言葉を残し、彼は人混みをかき分けて去っていった。
その様子を見ていた周囲の人たちも、「祈葉のお見舞いに行かなきゃ」と口々に言いながら、ぞろぞろと散っていく。
ほんの数分前まで人でごった返していたビーチには、私ひとりだけが取り残された。
足元の砂浜には、紙皿や空き缶が散乱している。
私はその惨めな光景を見やりながら、唇の端を自嘲気味に持ち上げた。
まただ。
私と祈葉が天秤にかけられるたびに、私の彼氏は、決まって祈葉を選ぶ。
いや、彼氏に限った話じゃない。
私の周りの人間は、全員そうだ。
彼らの目に映る祈葉は、美しくて心優しい女神。
対して私は、冷たくて恩知らずな悪女。
ただ、祈葉の父親が私を庇って亡くなった――それだけの理由で、私は彼女に命の借りがある女にされてしまった。
だから私は、彼女に感謝しなければならない。
両親を譲り、彼氏も譲り、彼女が欲しいと言うものは何でも差し出す。
それが当たり前だと、みんなが言う。
「それはお前が祈葉に負っている借りだ」と。
だから私は、拒めない。
意見も言えない。
そうしなければ、すぐに「物分かりが悪い」「恩知らず」と烙印を押される。
力なく、長い息を吐いた。
いっそ、あのとき死んでしまっていればよかったのかもしれない――そんな考えが頭をよぎる。
そのとき、ポン、と無機質な通知音が鳴った。
スマホにメッセージが届いたのだ。
『見た? 私がちょっと手招きするだけで、金彦はいつでもあなたを捨てて私のところに来るの。妃那、あなたは永遠に私には勝てない』
祈葉からだ。
彼女が金彦を好きなことは、とうの昔に知っている。
こうやって私にマウントを取ってくるのも、一度や二度じゃない。
返信する気にもなれなかった。
私が使い古したゴミを、そこまで欲しがるなら――くれてやればいい。
どうせ今夜を境に、私は本気で金彦を捨てると決めたのだから。
夜の海辺は、さっきまでの熱気が嘘のように静かで、吹き抜ける風が少し肌寒い。
私は両腕をさすりながら、砂浜を後にしようとした。
プロポーズは無惨な終わり方をしたし、ここに居座る理由もない。
ところが、歩き出して数歩もしないうちに、妙な違和感に気づいた。
背後に、複数の足音がついてくる。
胸の奥で警戒心が跳ね上がる。
私は立ち止まり、振り返った。
ちょうど、数人の男と目が合う。
ねっとりとした下卑た視線。
獲物を見つけた狩人みたいに、ギラギラとした目。
全身の産毛が一斉に逆立つ感覚がした。
パニックになりかけた頭で、私は条件反射のように、いつもの「癖」に従ってスマホを操作していた。
金彦へ発信。
「金彦!」
早足になりながら、声を抑えて叫ぶ。
「誰かに尾けられてるの。早く助けに来て!」
受話口の向こうは、しばらくのあいだ沈黙に包まれていた。
「妃那、今夜は本当に手が離せないんだ」
ようやく返ってきた声は、うんざりしたようなトーンだった。
「いい加減、嫉妬で嘘つくのはやめてくれないか? 祈葉の具合が良くなったら、約束するよ。もう一度ちゃんとプロポーズをやり直すから」
……嘘。
私が嘘をついていると思っているんだ。
祈葉のそばから彼を引き剥がすために。
奥歯が軋むほど噛みしめながら、必死に訴える。
「本当なの! 男が五人、このビーチにいて、私――」
「妃那!」
私の言葉を遮ったのは、母・恵麗の怒鳴り声だった。
「お姉ちゃんが事故に遭ったのに、お見舞いにも来ないで、大事な日に外で遊び歩いて、その上、嘘ばっかり! あんた、いつになったら少しは分別がつくの?」
「言っとくけどね、今夜は誰もそっちには行かないわよ! もう電話してこないで!」
ガチャン、と容赦なく通話が切られる。
私は震える指で再度発信しようとスマホを操作した――
その瞬間、足元の砂浜に映る影が、ぐっと伸びてくるのが目に入った。
複数の影が、どんどん近づいてくる。
全身が強張る。
振り返ると、さっきまで少し離れた場所にいたはずの男たちが、いつの間にか背後に迫っていた。
「――!」
悲鳴を上げる間もなく、私は踵を返して走り出そうとした。
だが次の瞬間、男たちは一斉に飛びかかってきて、私の身体を砂の上へ押し倒した。
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