第5章

妃那視点:

 突然の接触で、全身にビリッと電気が走ったみたいに力が抜けた。

 体はこわばって動けないのに、感覚だけがやけに研ぎ澄まされていく。

 柔らかな舌が耳の上をなぞり、そこから吹きかけられる息が肌の奥へと染み込んで、湿った熱と痺れるような感覚が、そのまま心臓めがけて押し寄せてきた。

 勝手に震えが走る。次の瞬間、男の低くくぐもった笑い声が耳元で転がった。

 ――挑発してるつもり?

 顔が一気にかっと熱くなり、はっと我に返った私は、思いきり奴を突き飛ばし、振りかぶった手をその頬に叩きつけようとした。

 だが彼は素早く私の手首をつかみ、片眉をつり上げる。

「警察、呼んでやろうか?」

「離しなさい!」私はきっと睨み上げた。

 彼は執拗にからかう調子を崩さない。

「今度こそ、本当に君に痴漢しちゃったわけだけど。通報しなくていいのか?」

 さっき警察署で、署長自らが彼を送り出したことを、私は忘れていない。

 署長の彼に対する態度は異常なほど丁重で、一目で分かった。こいつはただ者じゃない。

 通報したところで無駄だ。結局、さっきと同じ結果になるに決まっている。

 胸の奥がざらつくように苛立った。まさか、こんな厄介な男に目をつけられるなんて。

 言葉も拳も通じないクズ。私以上に壊れた人間。

 おまけに、権力まで持っている。

「結構よ」私は彼の嘲るような目を真っ向から受け止め、歯を食いしばって言った。「犬に噛まれたと思うことにするわ」

 それを聞いて彼は、怒るどころか愉快そうに笑い出した。

 ――本当に、狂ってる。

 これ以上かかわると、もっと面倒を呼び込みそうで怖い。さっさと縁を切りたいのに、彼は一向に手を離そうとしない。

 私は覚悟を決め、彼の足めがけて踵を振り下ろした。

 彼は予想通りすばやく身を引いた。だが、それは囮だ。本当の狙いは、もっと上。

 ――今だ。

 膝を折り、全力で股間に打ち込む。

「ぐっ……!」

 クソ男がさすがにバランスを崩し、私の手首から力が抜けた。

 私はその隙を逃さずくるりと背を向け、一目散に走り出した。

 数歩駆けたところで、背後から奴の声が飛んでくる。

「ベイビー、覚えとけよ。俺の名前は 葉夜 だ」

 誰がそんなもの気にするもんですか。

 たまたま遭遇しただけのクソ痴漢。女を見りゃ片っ端から口説いてそうなタイプなんて、どうせすぐに私のことなんか忘れる。

 それに、もう二度と会うこともないはず。

 ……ただ、葉夜という名前には、どこか聞き覚えがあった。

 たしか、トップ名門である篠川家の新しい当主も、同じ名前だったような――。

 そんな考えが頭をよぎり、私はぞっとして息を呑んだが、すぐに打ち消した。

 噂では、その当主は冷酷非情で、決断は鋭く、滅多に笑いもしない人間だと言われている。

 痴漢なわけがない。

 ただの同姓同名に決まってる。

 私はそれ以上、葉夜という男のことを考えるのをやめた。

 今夜だけで、十分過ぎるほど消耗した。

 今の願いはひとつ。早く家に帰って、ぐっすり眠ること。

 ――そう思っていたのに。

 朝日を浴びながら玄関のドアを開けると、家の中には全員がそろっていた。

 父と母は祈葉の周りにぴったり寄り添い、あれこれと世話を焼いている。祈葉は満面の笑みで、甘えるように二人に寄りかかっていた。

 脇には金彦が控え、愛おしそうな表情でコップを手に、祈葉に水を飲ませようとしている。

 なんて、ほのぼのとした幸せな家族の光景だろう。

 誰一人、私が帰ってきたことに気づかない。

 無視されるのはとっくに慣れた。私は表情ひとつ変えず、階段へ向かった。

 そのときになってようやく、父・吉成が私に気づいたらしい。

「妃那!」

 私は歩みを止めない。

 彼は苛立って声を荒げ、もう一度私の名を叫ぶと、数歩で間を詰めて私の目の前に立ちはだかった。

 訝しげに顔を上げた、次の瞬間。

 飛んできた平手が、頬を打ち据えた。

「お前はどうしてここまで性根が腐ったんだ! こんな姿になると分かっていれば、生まれたその日に絞め殺しておくんだった!」

 頭の中が一瞬真っ白になる。現実に引き戻されると同時に、怒りが一気に全身を焼いた。

 理由もなくいきなり殴るなんて、何様のつもり?

 私は頬を押さえ、父を睨みつける。

「何の権利があって、私を殴るの?」

「お父さんの言う通りよ!」母の恵麗が、これでもかという勢いで私を指差した。「あんた、さすがにやり過ぎたわ!」

 何を、どうやり過ぎたっていうの?

 でも、そんなことはどうでもよかった。祈葉がこっそり眉を上げ、挑発するように私を見た瞬間、全部察した。

 また、あの女の仕業だ。

 私は冷笑し、振り上げた手を勢いよく振り下ろし、そのまま祈葉の前まで歩いていった。

 祈葉が表情を作るより早く、私の平手がその頬を叩きつける。

 場が一瞬で騒然とした。

「妃那! 何をしてるの!」恵麗が悲鳴を上げる。

 ――見て分からない?

 ビンタよ。

 私は片手で祈葉の髪をつかみ、もう片方の手で、左右から立て続けに平手を飛ばした。

「やめなさい!」恵麗が逆上し、吉成と一緒に私を力任せに突き飛ばす。

 私はよろけながら二歩ほど後退し、背中から椅子にぶつかった。腰が砕けるかと思うほど鋭い痛みが走り、その場で伸び上がることさえできなくなる。

「頭おかしいんじゃないの!」恵麗は私を罵倒し、すぐに振り向いて悲嘆にくれた声を出す。「いやだ、祈葉……可哀想な私の娘! 大丈夫? お母さんを怖がらせないで!」

 吉成は大声で使用人に怒鳴った。

「救急箱を持ってこい! 医者もすぐ呼べ!」

 金彦も不安げな顔で祈葉の前にしゃがみ込み、慎重に彼女の頬に触れて傷の具合を確かめている。

 私は打ち付けた腰を押さえ、顔を上げた。

 目の前に広がっていたのは、その光景だった。

 無視されるのは初めてじゃない。祈葉がうちに現れてから、私が誰の目にも入らなくなったことも分かっている。

 でも、大粒の冷たい汗が額から流れ落ち、目に入ったとき、胸の奥がじくりと痛んだ。

 ――やっぱり、つらい。

 私はこみ上げてきた涙を必死に飲み込んで、そっと腰を伸ばそうとした。けれど息を吸うだけで、震えるほどの痛みが走る。

 昨夜、あのチンピラに殴られたところに、まともにぶつけたらしい。

 間もなく使用人が医者を連れて戻ってきた。祈葉の診察が進む中、吉成はやっと私の存在を思い出したらしい。

「どうしてお前は姉さんを殴った?」

 私は鼻で笑った。

「じゃあ、どうしてあなたは私を殴ったの? 全部、あなたから学んだのよ。理由なく私を殴るから、私も同じように、理由なくあの子を殴っただけ」

 吉成は自分が間違っているなんて、欠片も思っていない顔つきで、胸を張って言い返した。

「殴ったのは、お前が人を雇って祈葉を車で轢かせたからだ! 妃那、お前はますますわがままになり、とうとう犯罪まで犯すようになったのか! 私はそんなふうに育てた覚えはないぞ!」

「私が人を雇って彼女を轢かせた?」昨夜の祈葉の交通事故が頭をよぎり、私は冷ややかに笑った。「証拠でもあるわけ?」

 吉成は私の鼻先を突きつける。

「まだ白を切る気か! 祈葉を轢いた運転手が、ちゃんと白状したんだ。お前に金で雇われたってな!」

「口頭の証言だけじゃ、私を有罪にはできない」私は冷たく言い捨てる。「認めるつもりはないわ」

 吉成は飛び上がらんばかりに怒った。

「お前がやったに決まってる! 認めない権利なんてない!」

 答えるのも馬鹿らしくて、私は無表情のまま彼の怒鳴り声を眺めた。

「お父さん、体に障るわ」祈葉が優しく口を開いた。そして私を見ると、深いため息をつき、悲しげな声で言う。「妃那、もし本当にそんなに私が嫌いなら、私が家を出て行くわ。ただ……お願いだから、私のせいでパパとママと争わないで」

「前田家の娘は、永遠にあなただけよ」

 見事なお手本のような台詞だ。祈葉の舌先三寸は、昔から天下一品。

 残念ながら、その「下がってから前に出る」やり口は、私には通用しない。

 私は首を少し傾け、彼女の顔をじっと見据えて言った。

「いいわよ。じゃあ今すぐ出て行って」

「何ふざけたこと言ってるんだ!」吉成が烈火のごとく怒鳴った。「忘れるな、祈葉はお前の恩人なんだぞ!」

 恵麗も言い募る。

「妃那、恩知らずはやめなさい。当時、あんたが勝手に遊びに出て誘拐されたせいで、祈葉のお父さんはあんたを庇って亡くなったの。あんたが祈葉に負っている恩は、一生かけても返し切れないのよ」

 そう。

 祈葉の父親は、私のせいで死んだ。その事実だけは変えようがない。

 その出来事は、私を縛りつける重い鎖になった。

 巨大な山みたいに、いつも頭上から押し潰してくる。息もできないほどに。

 私は自分の両親を譲った。本来なら私に注がれるはずだった愛情も譲り渡し、挙げ句の果てには、恋人まで明け渡した。

 なのに、それでも彼らは「まだ足りない」と言う。

 どうして、まだ足りないの?

 どうすれば、返せるというの?

 この恩が、底なしの沼だと分かっていたら――あのとき、死んでいた方が、よっぽど楽だった。

 私が黙り込んでいると、吉成は再び怒声を浴びせた。

「祈葉に謝れ!」

 心はとっくに擦り切れていたが、私は首を横に振る。

「やってないことに、謝るつもりはない」

「妃那!」今まで黙っていた金彦が、苛立ちを隠さない声で口を挟んだ。「謝るだけでいいんだ。祈葉は優しいから、きっと許してくれる。どうしてわざわざ事を荒立てて、警察に捕まりたいんだよ!?」

 彼はもう、私の金彦じゃない。

 もう私の味方ではいてくれない。

 目の奥がつんと熱くなる。

 私は瞬きをして、今にもこぼれそうな涙を押し戻した。

「じゃあ、呼べばいいじゃない。警察を」

前のチャプター
次のチャプター