第7章

妃那視点:

「このクソ親父! いったい何をほざいてるの?」

一郎がまた殴りかかってこようとする。

私は鼻で笑い、袖口に隠していたメスをすっと抜き取った。

その場にいた全員の息が、ぴたりと止まる。

恵麗が悲鳴を上げた。

「妃那、なにする気なの?」

私は一郎を真っすぐ見据え、口元だけをつり上げる。

「殴るって言うなら、私はこのメスを祈葉の心臓に突き立てるだけよ」

「お、お前……!」

一郎は真っ赤になって震えたが、結局その場から一歩も動けなかった。

口だけは止まらない。

「狂ってる! お前は頭がおかしいんだ!」

私は眉をひょいと上げ、だるそうに言う。

「私が狂ってるって分かってるなら、ちょっかい出さないことね」

ここには、もう一秒たりともいたくない。

背を向けて歩き出したとき、恵麗が小さな声で言い訳してきた。

「妃那、祈葉と金彦は、あなたが考えてるような仲じゃないのよ」

「そうだ、心の汚い奴には、何を見ても汚く見えるんだ」

一郎はまだ怒りの余韻を引きずっているのか、忌々しげに吐き捨てる。

「金彦は、祈葉の体調が悪いから、お前の代わりに看病してやってるだけだ!」

金彦は、傷ついた顔で私を見た。

「妃那、僕が祈葉を看病してるのは、誰のためだと思ってるんだ? どうして、いつまでもそのことで根に持つんだよ」

「だって私は根に持つ女だもの」

私は即座に言い返した。

「大事な人に関してなら、いくらでも根に持つ。大事だからこそ、些細なことまで気に障るのよ!」

口から勝手に飛び出した本音に、自分でも驚く。

その直後、金彦の目と正面からぶつかった瞬間、胸の奥に久しぶりの解放感がふっと湧き上がった。

「でもね――これから先、私はもうあなたのことで根に持ったりしない」

金彦は目を見開き、嬉しさと驚きが入り混じった顔をした。

「本当か? 妃那、やっと僕を分かってくれたのか?」

「いいえ。あなたを要らないって決めただけ」

どうでもいい相手に対しては、根に持ったりしない。

どうでもよくなれば、何でも許せる。

私と金彦の関係で、今までしがみついていたのは、いつも私の方だけ。

だから苦しいのも、傷つくのも、いつだって私一人だった。

私は彼を解放してやることにした。

そして、自分自身も。

金彦は言葉を失い、唇を引き結んで、しばらく私をじっと見つめる。

「本気で言ってるのか?」

彼は低い声で問う。

私はその視線から逃げず、ゆっくりと、はっきり頷いた。

「まだ駄々をこねるのかよ。いつまでそのことを引きずるつもりだ?」

金彦は苛立ったように声を荒げる。

「結局全部、僕と祈葉を誤解してるからだろ!」

「妃那、お前には良心ってもんがないのか?」

彼は一歩詰め寄った。

「祈葉の父親を死なせたのはお前だ。償うべきなのはお前で、僕は今、その償いをお前の代わりにしてるんだぞ。それなのによくも僕を誤解できるな? よくも別れを口にできるな?」

「誤解、誤解、口を開けばそればっかり」

私は冷ややかに笑った。

「ねえ金彦、自分で自分に何回『誤解だ』って言い聞かせてきたか、数えてみたことある?」

怒りたくなんてなかった。

心のどこかで分かっている。彼らは怒りをぶつける価値もないって。

それでも、こうして現実を突き付けられると、感情はあっさり理性を踏み潰してしまう。

金彦は、少しだけ気まずそうに目をそらした。

最近の自分の口癖を、自覚したのだろう。

「でも、君は確かに僕と祈葉を誤解してる」

彼の声は、少し柔らいだ。

「ちゃんと説明する。話を聞いてくれ」

「誤解かどうかは、一番よく知ってるのはあなただと思うけど」

私は淡々と告げる。

「妃那! また拗ねてるのか」

金彦は眉間を揉みながら、呆れたように言った。

「もういい歳なんだ、いつまでも子供みたいにわがまま言うなよ。頼むから、僕の話を聞いてくれないか?」

「聞きたくない」

私ははっきり言い切る。

金彦がまた怒鳴りそうになったので、手を上げて制した。

彼の目に、わずかな驚きが浮かぶ。

今日の私が、今までの「癇癪」と違うことに気づいたのかもしれない。

「あなたの説明は、私にとってもう何の意味もないの」

私は一語一語区切るように言った。

「だって、あなたがどう説明しようとしまいと、私はもうあなたと婚約しないから。金彦、さっきも言ったでしょう。私たちは終わりよ」

「終わり……?」

一郎が声を上げた。

「どういう意味だ、それって別れるってことか?」

まさか本当に別れるとは思っていなかったらしく、露骨に狼狽している。

恵麗も理解できないという顔で問い詰めてくる。

「だって金彦くん、あなたのプロポーズを受けたんじゃなかったの? 今さら反故にするつもり?」

二人が本当に事情を知らないと分かると、私は余裕たっぷりに金彦の方へ首を傾げた。

金彦の顔に、うっすらと赤みが差す。

どうやらこの件を、まだ両親に話していなかったらしい。

「じゃあ、私の口から説明してあげる」

私は軽く笑った。

「昨日のプロポーズの最中、金彦はあなたたちの『優秀なお嬢さん』祈葉から電話を受けて、そのまま祈葉の看病にすっ飛んで行ったの。だから、プロポーズなんて、最初から成功してないわ」

「ただの儀式だろ」

金彦は声を潜め、私を牽制するように言った。

「妃那、僕たちこんなに仲が良いのに、ここで意地を張るなよ。いいか、わがままもほどほどにしろ。自分の言葉の結果に、責任が持てるのか、よく考えろ」

「私、別に癇癪を起こしてるわけじゃないし、頭もすごく冷静よ」

私は真顔で返す。

「そして復縁もしない。昨日もはっきり言ったじゃない。あなたが私を置いて行ったら、その時点で終わりだって」

私は長年想い続けてきたこの男を見つめ、深く息を吸い込んだ。

「終わりにすると決めたのはあなた。私は今、その終わりに同意しただけ」

「嫌だ、僕は同意しない!」

金彦は声を荒げた。

「そんなの、ただの八つ当たりだ! 昨日、僕が君を置いて行ったのを根に持ってるだけじゃないか!」

「分かった。約束するよ」

彼は不承不承といった顔で続ける。

「もう一度、ちゃんとプロポーズの儀式をやり直してあげる。それで納得してくれ。もうこれ以上、子供みたいに駄々をこねるな」

口では譲歩しているくせに、その表情には不満と苛立ちしかない。

彼の中では、私がここまでしている理由は、ただ「プロポーズの儀式」が欲しいから――それだけなのだろう。

だから「儀式をくれてやる」ことが、最大級の施しだとでも思っている。

私は自嘲気味に唇を歪めた。

こんなにも長い間、一歩一歩譲り、我慢し、彼を甘やかしてきたというのに。

それは感謝どころか、私を「安い気遣いだけで手懐けられる女」にしただけだった。

私はもう金彦に構わず、一郎と恵麗に向き直る。

「とにかく、私と金彦の関係は完全に終わったわ。婚約パーティーには出ないし、彼とは絶対に結婚しない」

「いい加減にしろ!」

一郎は激昂し、怒鳴りつけた。

「前田家と金彦の家は、長年の盟友なんだぞ。お前と金彦の婚約も、とっくに決まってた話だ。自分を何様だと思ってる? お前みたいな娘が『結婚しない』なんて言って通ると思うな!」

「言ったら通るのよ」

私は冷ややかに見返した。

「私が『嫁がない』と言った以上、嫁がない。あんたこそ何様? 何の権利があって私の人生に口出しできるの? 私が望まない限り、誰も私を無理やり嫁がせることなんてできないわ。試してみたら? あなたに、そこまで私を縛る資格があるかどうか」

「この…親不孝者が!」

一郎は再び手を振り上げる。

私はゆっくりと、指先でメスを回した。

恵麗が慌てて一郎を押しとどめ、私には必死に宥める声を向ける。

「妃那、そんな意地悪なこと言わないで。あなたが金彦のことをどれだけ好きか、みんな知ってるのよ。あなたが嫁がなかったら、金彦はどうなるの? うちと向こうの縁談はどうするの?」

「前田家の娘は、私一人じゃないわ」

私は視線を祈葉へ滑らせる。

「金彦は、あなたたちのもう一人の娘と結婚すればいい」

金彦は、恨めしそうに私を見た。

「妃那、僕がずっと愛してきたのは君だけだって、君が一番よく知ってるだろ」

「私はもう、あなたを愛してないの」

私はきっぱりと言う。

「祈葉と結婚したくないなら、一郎さんとでも結婚すれば?」

「なっ……逆女!」

一郎は顔を真っ赤にして叫んだ。

私は彼に向かってウインクし、のんびりと言ってやる。

「一郎さん、前田家のために、そのくらいの犠牲も払えないの?」

「お、お前という奴は……!」

「ふふ」

一郎と金彦が並んでタキシードを着ている姿を想像した瞬間、思わず吹き出してしまった。

笑いながら、ひらひらと手を振る。

「まあ、私からの心からの提案よ。よく考えてみて」

そう言い捨てて歩き出したところで、背後から金彦が私の名を呼び、足音を立てて追いかけてくる。

「金彦!」

恵麗が突然悲鳴を上げた。

「祈葉が倒れたわ!」

私は思わず足を止め、振り返る。

案の定、金彦は私を追うのをやめ、祈葉の元へ猛ダッシュしていた。

「大丈夫か?」

彼は祈葉を抱き起こし、心配そうに覗き込む。

祈葉は眉をしかめ、苦しげな声を漏らした。

「急に、心臓がすごく痛くなって……車の事故の後遺症かもしれない……」

分かっている。祈葉の演技は、決して上手くない。

祈葉もそのことは分かっている。たぶん、他の人たちだって、どこかで気づいている。

それでも、彼らは彼女を信じる。

信じたいから。

そして――彼女を、選びたいから。

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