第9章
金彦視点:
――何だって?
昨日の夜、妃那は本当にチンピラに尾けられていた――?
まさか、昨日あのときの電話が、本物のSOSだったなんて、夢にも思わなかった。
勝康署長の言葉が、さらに俺の頬を焼くような羞恥をあぶり出す。
もし昨日、妃那が本当にあの連中にひどいことをされていたら――
俺は、どうしていただろう。
「俺は……」
署長の問いにどう答えればいいのか分からず、喉に綿でも詰められたように声が出ない。
「昨日の夜、俺は……」
祈葉が一歩前に出て、代わりに口を開いた。
「昨日は私が交通事故に遭って、一家でずっと病院にいました……全部、私のせいです……」
一郎が、すぐさま祈葉の言葉を遮る。
「お前のせいじゃない。そんなもの、お前に責任があるものか。誰だって、好きで事故になんか遭いやしない」
そう言ってから、勝康の方へ向き直った。
「署長は妃那のことをご存じない。あの子はいつも嘘ばかりつくんです。自分に注意を引きたくて、常識外れなことばかりする。昨夜はこの娘が事故で手術を受けていたものですから、あの子が電話してきても、誰も信じませんでした」
事実だけを言えば、一郎の説明は間違っていない。
だが、昨夜妃那が味わったかもしれない恐怖を思うと、胸の奥がじわじわと罪悪感で締めつけられていく。
――俺は確かに、妃那からの電話を受けた。
なのに、あいつが嫉妬して、祈葉のそばから俺を引きはがそうとしているんだと決めつけ、きつく責め立てた。
挙げ句、電話を切っただけでなく、電源まで落としてしまった。
……無事でいてくれて、本当に良かった。
「署長……昨日、彼女は親切な方に助けられたとおっしゃいましたね?」
俺は勝康に向き直り、頭を下げる勢いで頼み込む。
「差し支えなければ、その方のことを教えていただけませんか。妃那は、俺の婚約者なんです。直接お礼にうかがいたい」
勝康はわずかに眉をひそめ、俺と、俺が抱き上げている祈葉の姿を、意味深に見比べた。
「君が、妃那さんの婚約者? じゃあ今、その腕の中にいるのは……」
「姉です。妃那の姉なんです。身体が弱くて……今から病院へ連れて行くところでした」
顔が熱で焼け落ちそうなほど真っ赤になりながら、必死に説明する。
勝康が信じたのかどうかは分からない。だが、結局その「親切な人」の情報は教えてはくれなかった。
「礼を言いに行きたいのなら、妃那さん本人に聞きなさい。昨夜は、その親切な人が彼女を送り届けたんだ」
――送り届けた?
胸の奥で、得体の知れない危機感がもぞりと頭をもたげる。
男の勘というやつだろうか。俺は思わず、問いを重ねていた。
「その……親切な方というのは、男の方なんでしょうか?」
勝康は、ふっと口元だけで笑った。
「それなら教えてやろう。男だ」
胸の内側が、じん、と酸っぱくしびれる。
同時に、危機感の色がぐっと濃くなった。
今日の妃那の妙な変化――その理由が、少し見えてきた気がする。
あいつは、親切な男に出会ったのだ。
しかも、見知らぬ男に家まで送らせるなんて――
……まさか、心変わりなんて。
いや。
俺は自分に言い聞かせる。そんなはずがない。
あいつが俺をどれほど愛しているかなんて、周りの人間は誰だって知っている。
きっと、俺を怒らせたくてやっただけだ。
扱いにくい女だ。本当に。
……まあ、だからこそ、いい。
今回は、とことん機嫌を取ってやるしかないな――
そんなふうに考えていたとき、勝康がふと思い出したように尋ねてきた。
「それで、妃那さんはもう帰ったのか?」
「はい」
今度は近くにいた警官が答える。
勝康は続けて訊ねた。
「なら、どうしてまた署に戻ってきたんだ?」
警官が、今日妃那が通報した一件を、順を追って説明していく。
一通り聞き終えると、勝康は冷ややかな目を俺たちに向けた。
「親でありながら、自分の娘を信じない。婚約者でありながら、自分の女を信じない。いやはや、見事な見世物を見せてもらった」
この件に関しては、反論の余地などない。
完全に、俺たちが悪い。
俺はできるだけ紳士的な態度を崩さず、頭を下げた。
「彼女には帰って、きちんと謝ります。ですから――昨夜、彼女を襲ったあのチンピラどもは、ぜひ厳しく罰してやってください!」
「仕事のやり方に口を出される筋合いはない」
勝康署長の声には、はっきりとした嫌悪がにじんでいた。
これ以上逆なでするのは得策ではない。
俺たちは祈葉を抱えたまま、そそくさと署を後にした。
妃那視点:
警察署を出たあと、私はもう祈葉のいるあの家には向かわなかった。
あの家は、もはや私の家じゃない。
私の両親は、私を愛してくれない。
私の婚約者も、私を選んでくれない。
――私は、とっくにあの場所に属していないのだ。
今、私は外で部屋を借りて暮らしている。広さなんてたかが知れている。でも、この部屋には「えこひいき」がない。だからこそ、一番息がしやすい。
昨夜のプロポーズ騒動のあと、私は何ひとつ口にしていなかった。
お腹はとっくにぺったんこだ。
部屋に戻るなり、簡単な食事を作って、ひとりで平らげる。
食べ終えたら、少し眠ろう――そう思って、ベッドに体を沈めた。
けれど、寝入って間もなく、枕元のスマホがけたたましい音を立て始める。
うんざりしながら手を伸ばし、ディスプレイを覗いて、思わず眉をひそめた。
一郎――私の父からだ。
あの人の電話で、ろくなことだった試しがない。
警察署で怒鳴り散らしただけでは気が済まず、わざわざ電話で続きをやるつもりなのだろう。
出る気なんて、毛ほどもなかった。
だが相手は、今夜に限って妙に執念深い。切ればすぐ、またかけてくる。
それでも私は無視を貫いた。
しばらくして、ようやくコールは止む。代わりに、一通のメッセージが届いた。
内容を目にした瞬間、胸の奥から、ぶわっと怒りが噴き上がる。
――「祖母の家」の名義について話がある、だって?
何を話す必要があるの。
あの家は、もともと祖母が私に残してくれたもの。
それをこの期に及んで人質みたいに使って、私を揺さぶろうというのだ。
祈葉が家に来てから、父も母も、目に見えて彼女ばかりを可愛がるようになった。
そんな中で、変わらず私の味方でいてくれたのは祖母だけだ。
祈葉の影の下で縮こまっていたあの頃、祖母は、私の壊れかけた人生に差し込んだ、一筋の光だった。
私と祈葉が一緒に暮らしても幸せになれない――祖母はすぐにそう見抜き、十歳を過ぎた頃、私を引き取って一緒に暮らしてくれた。
C市でのあの日々は、私の人生で一番穏やかで、幸せな時間だった。
祖母は、全ての風雨を背中で受け止めてくれた。
私をかばい、甘やかし、両親からは決して得られなかった愛情を、惜しみなく注いでくれた。
家での私の立場の悪さも、祖母はちゃんと理解していた。
だからこそ、C市の家は必ず妃那に残す――何度も、そう言い聞かせてくれていたのだ。
私は、ずっと祖母と一緒に暮らしていけると信じていた。
けれど、祖母はある日突然この世を去り、遺言も残していなかった。
家は法律通り、一郎が相続することになった。
そしてさっき、一郎はメッセージで私を脅してきた。
「家が欲しければ、実家へ戻って皆で食事をしろ」と。
胸の奥が、じわりと苦くなる。
――これが、私の父。
私の弱点を知ると、そこばかり容赦なく突き刺してくる男。
それでも、私は祖母の家を取り返さなければならない。
だから、決められた時間どおり、私は「私の居場所ではない家」の玄関をまたいだ。
母は、まるで何もなかったかのような笑顔で出迎えた。
「妃那、今日はね、あなたの大好物のクリームマッシュルームスープを作ったのよ」
甘ったるくご機嫌取りの響きを含んだ声。
だけど残念――私はキノコアレルギーだ。
クリームマッシュルームスープが好きなのは、祈葉。
一郎も、警察署のときのような激情は見せず、穏やかな顔で言う。
「せっかく戻ってきたんだ。このまま家に住めばいい。家にいれば、誰かが面倒を見てやれるし、私たちも安心だ」
外で暮らし始めてから、どれくらい経ったと思っているのか。
あの人たちが知らないはずがない。
知っていて、一度たりとも心配したことなどなかったくせに。
今日に限って急にこんなことを言い出す理由なんて――考えるまでもない。
こんな見え透いた「家族ごっこ」に、今さら付き合うつもりはないし、感情を差し出して役を演じてやる義理もない。
私は遠慮なしに切り込んだ。
「私はおばあちゃんの家の件で来たの。いつ、名義を私に移してくれるの?」
一郎の表情は微動だにしない。
「お前が婚約したら、そのときだ」
「婚約?」思わず笑いが漏れる。「前にも言ったはずよ。私と金彦は終わった。もう彼とは婚約しない」
一郎の顔色がみるみる紅潮し、テーブルを叩く音が響いた。
「ふざけるな! これは家同士の縁談なんだ。お前が嫌だと言って終わる話じゃない。いいか、金彦と婚約しないのなら、祖母の家は絶対に渡さん!」
私は静かに言い返す。
「おばあちゃんは、あの家は私に残すって言ってたわ。あなた、おばあちゃんの遺志を踏みにじるつもり?」
「今、その家は私の名義だ。口を出したければ、まず言うことを聞け」
ここまで平然と、開き直るとは思っていなかった。
奥歯を噛みしめ、一郎を睨み据える。
そんな私の反応など意に介さず、彼は更に言葉を続けた。
「お前が婚約しないなら、家には大きな損失が出るんだぞ」
「だから何? 私、家の株なんて一株も持ってないけど。もともと成人したら私に渡すはずだった30%の株、勝手に祈葉にやったのはそっちでしょ。私が婚約しなくて家が損するなら、むしろ結構なことね。いっそ破産でもしてくれたらいい」
一郎はカッと目を見開き、がたんと椅子を鳴らして立ち上がった。
「黙れ! なんて狭量なやつだ。祈葉に渡した30%は、お前があの子に負っている借りなんだ! とにかく、婚約しないのなら、祖母の家も祈葉にやる!」
