第1章
婚約者の隼人は、ことあるごとにこう言う。「お前は金稼ぎのことばかりで、家庭を全く顧みない」と。
彼のご機嫌を取るため、私は仕方なく数々の会議の合間を縫って、今回の家族旅行を計画した。
「家族旅行」とは名ばかりで、実際に動いている人間は私一人だ。
航空券、ホテル、スキーのインストラクターにリフト券、悪天候時の代替プラン、最高ランクの旅行保険。さらには隼人の母・美紀子の常備薬に、父親のアルコール制限の管理まで——これら全ての面倒事を、私一人で手配した。
もちろん、費用も含めて。
彼らがやったことといえば、傍らで写真のフィルターや、雪山で映えるウェアの色についてあーだこーだ議論していただけ。
隼人の弟、翔太が口にした「本物のパラグライダーで飛んでみたい」という願望さえ、私はスケジュールに組み込んだ。
冬季の高高度滑空など、本来最もリスクが高いアクティビティだ。
私は相場の三倍もの料金を支払い、アスペンで最も熟練した山岳安全チームを呼び寄せた。
彼らを家族だと思っているからこそ、労力も出費も惜しまなかったのだ。
何せ私は、グローバル500企業のCEOだ。年末の配当だけで億単位の収入がある。スキー場の渓谷を丸ごと買い取ったところで、痛くも痒くもない。
一方、隼人の肩書きは、私が用意してやった「特別プロジェクト・ディレクター」。それでやっと月給三〇万円だ。
そのメッキを剥がせば、彼の実力相応の収入は二〇万円前後をうろつくレベルに過ぎない。
隼人の両親はすでにリタイアし、今は私たちの別荘に居座っている。翔太に至っては、十二歳の頃から学費の全てを私が負担してきた。
今回の旅行に対して興奮を隠せない彼らの様子を見て、私も「これだけの準備をした甲斐があった」と思っていた。
しかし、出発の前夜。隼人は突然、こう切り出した。
「あ、そうだ里奈。真奈子がずっとアスペンに行ってみたかったって言うから、一緒に行くことにしたよ。でも決まったのが遅くてさ、元のファーストクラスが満席だったんだ。だから航空会社に連絡して、搭乗者リストを変更してもらった。真奈子には里奈の席に座ってもらう。里奈の分は、俺が新しく取り直しておいたから」
送られてきた搭乗情報を見て、血の気が引いた。
発着空港は、昨夜のニュースで「テロリスト潜伏の疑いあり」と報じられたばかりの場所。
しかも、彼が私にあてがったのはエコノミークラスだった。
作業していた手が止まる。
「……どうして、真奈子をその便に乗せないの」
「お前は頭もいいし、ファーストクラスなんて乗り慣れてるだろ? どうせ飛び回ってるんだ、どこの席だろうと同じようなもんだし。でも真奈子は一度も経験したことがないんだ。体験させてやりたいと思ってさ」
「つまり、私のファーストクラスの席を真奈子に譲って、私には危険な空港発のエコノミーに乗れと言うの?」
彼の言葉の端々に、苛立ちが滲み出し始めた。
「お前さ、単純な話をなんでそう悪意たっぷりに言うわけ? 真奈子は俺の幼馴染だぞ。彼女の気持ちを汲んでやるのは当然だろ」
「これ、私たちの家族旅行じゃなかったの」
「真奈子は別枠だよ」
「先週、私の母さんが行きたいって言った時は、『家族旅行だから』って断ったじゃない!」
「お前の母親は、あくまで『お前の』家族だろ。俺の家族じゃない。でも真奈子は俺と一緒に育ったんだ。俺たちのことを何でも知ってる、ほぼ家族みたいなもんなんだよ」
私が反論する前に、隼人の母・美紀子が割って入り、私を諭すような口調で言った。
「里奈さん、そんなに気にすることないじゃない。真奈子ちゃんと隼人は一緒に育ったのよ? 彼女を優遇するのは当たり前のことでしょう」
翔太も無邪気に声を上げる。
「真奈子姉ちゃんも一緒にファーストクラス? すげえ! いいじゃん里奈さん、金持ちなんだから一回くらい譲ってあげなよ」
翔太が手にしている、私が買い与えたばかりの新品のスキー装備一式。それを見て、心底皮肉だと感じた。
「俺の婚約者なんだから、もっと太っ腹になれないのか?」
隼人が苛立ち交じりに吐き捨てるのと同時に、玄関のチャイムが鳴った。
「真奈子だ!」
真奈子は新作のショートブーツを履いて現れ、巨大なスーツケースを引きずっていた。
翔太がすっ飛んでいき、荷物を受け取る。
「来るの遅いよ! 今回マジで楽しみにしてたんだから。もし真奈子姉ちゃんが引っ越してなくて、そのまま隼人兄と結婚してたら……姉ちゃんが俺の本当の義姉さんだったのに!」
美紀子も歩み寄り、真奈子の両手を包み込む。
「本当にそうねえ。ずっと言ってるけど、あなたこそが我が家の『本当のお嫁さん』よ。私の心の中では、あなたに敵う人なんていないわ」
彼女たちは、私の目の前で、平然と別の女を称賛している。
その瞬間、はっきりと感じた。
胸の奥のどこかが、完全に冷え切っていくのを。
