第3章

 家に帰り着いたのは、深夜二時を回った頃だった。

 室内は漆黒の闇に包まれている。

 皆、寝静まっているようだ。

 寝室へ向かい、ドアを開ける。その瞬間、私のものではない異質な匂いが鼻をついた。

 キングサイズのベッドには、二つの人影が横たわっている。

 隼人と真奈子が、私のベッドで眠っていたのだ。

 それだけではない。真奈子はあろうことか、私のパジャマを身に着けている。

 サイドテーブルには私のスキンケア用品が並び、明らかに誰かが使った形跡があった。

 胸の奥から熱いものが込み上げ、頭の中で何かが切れる音がした。

 次の瞬間、私は大股でベッドに歩み寄り、彼女が着ているパジャマの襟元を容赦なく鷲掴みにした。そして、力任せに引き剥がす。

 シルクの生地が肩から滑り落ちる。彼女はビクリと身を震わせ、驚愕に見開いた目で私を見た。

「な、何するの――」

 私は構わず、もう一度強く引いた。

 彼女の反応は早かった。即座に涙を流し始める。

「違うの、見たままじゃないの! やましいことは何もしてない! 本当に何もないの、誤解しないで!」

 騒ぎに気づいた隼人が目を覚ます。布団を抱きしめる彼女と、ベッドサイドに仁王立ちする私。状況を目にした彼の第一声は、彼女を庇うことだった。

「何してるんだお前?!」

「私の物を取り返してるだけよ」

 私は冷ややかに彼を見下ろした。

「ついでに確認させて。この寝室の表札、いつの間に書き換わったのかしら」

「何もないってば!」

 真奈子が割って入る。その声は怯えと媚びを含んでいた。

「服を着たままお喋りしてただけなの。里奈ちゃんが帰ってくるのを待ってて……そのうち、つい眠っちゃって」

 隼人は苛立ちを隠そうともせずに言った。

「お前の頭の中はどうなってんだ? 帰ってくるなり、どうしてそう最悪な方向にばかり考える?」

 私は彼を直視する。

「深夜、私のベッドに二人で寝転び、私のパジャマを着て、抱き合って寝ていた。これ以外の、どっちの方向に考えろって言うの?」

「だから、お前を待ってたんだよ!」

 彼も声を荒らげる。

「こんな時間まで帰ってこないから心配してたんだ。真奈子が話し相手になってくれて、ここで待ってるうちに疲れ果てて寝ちまった。それだけだ!」

 真奈子は掛け布団を強く握りしめた。

「パジャマのことだけが気に入らないなら、今すぐベランダで元の服に着替えてくるから……ちょっと汚れてるけど、私は平気だから……」

「ベランダなんかに行ってどうする。外は極寒だぞ」

 隼人が即座に庇う。

 真奈子は健気に首を振る。

「ううん、いいの。私、昔から我慢するのには慣れてるから」

 彼女は身を縮こまらせ、本当に起き上がろうとする素振りを見せた。

 パジャマは私が引き裂くように広げてしまったため、布団をのければ肌が露になる状態だ。

 隼人はとっさに彼女の肩を押さえた。

「行くな。お前はここにいろ、俺の服を持ってくる。俺のを着ればいい、昔よく俺のシャツ着てただろ」

 私は窓際に歩み寄り、ベランダへのサッシを開け放った。

「ベランダで着替えるんでしょ? 開けてあげたわよ」

「正気か? 今、何度だと思ってる!」彼は激昂した。

「真奈子を追い出す気かよ!」

「あなたも付き合ってあげればいいじゃない」

 私の声は凪のように静かだった。

「あなたたち、『一緒』にするのが得意なんでしょ?」

「もういいよ隼人くん、私が行けば済むことだから……お願い、里奈ちゃんと喧嘩しないで」真奈子が泣きじゃくる。

 隼人は決断を下した。

「俺も行く。真奈子、ベランダで話そう。あいつが頭を冷やすまでな」

 彼は彼女の手を取り、ベランダへと歩き出した。

 私は無言で道を空ける。

 二人が敷居を跨いだ瞬間、私は流れるような動作でサッシを閉め、クレセント錠を回した。

 カチリ。硬質な音が響く。

「里奈! 開けろ!」

 隼人がすぐにガラス戸を揺する。

 ガラスが微かに震えた。

 真奈子は布団にくるまったまま彼の横に立ち尽くしていた。冷たいタイルの上に裸足で立ち、足の甲は赤く凍え、瞳には涙が溢れている。

「心配しないで」私は淡々と言い放つ。

「そこに毛布が二枚あるわ。風もないし、凍え死にはしないでしょ」

「やりすぎだろ!」隼人が怒鳴る。

「婚約者をベランダに締め出す奴がどこにいる!」

「私も見たことないわ」

 冷ややかな視線を返す。

「婚約者のベッドで、他の女と抱き合って安眠してる男なんてね」

 バンバンと窓を叩く音を背に、私は寝室の明かりを消した。着替えと化粧品を手に取り、踵を返す。

 客間は清潔で、他人の匂いはしなかった。

 シャワーを浴び、ベッドに倒れ込むようにして眠りに落ちた。

 アラームが鳴ったのは、朝の六時半。

 階下へ降りると、リビングは戦場のような騒ぎだった。

 スーツケースが二列に並び、スキー用具が壁に立てかけられ、全員が大声で喋っている。

 私を見つけるなり、美紀子が口火を切った。

「里奈さん、昨夜のアレはどういうこと? 隼人を一晩中ベランダに閉め出すなんて、どういう神経してるの?」

 私はちらりと隼人に視線をやった。

「二人が一緒に寝ていたものですから。てっきり、そちらが本当の婚約者同士なのかと勘違いしましたわ」

 真奈子はソファの端に座り、目を赤く腫らして今にも泣き出しそうだ。

「違うの、里奈ちゃん、変なこと言わないで……」彼女は必死に首を振る。

「そうだよな」

 翔太がすかさず口を挟む。

「どうせまだ結婚してないんだし、兄貴、いっそ真奈子姉ちゃんと結婚しちゃえば? そのほうが手っ取り早いじゃん」

 これが、私が手塩にかけて世話をしてきた義弟の姿だ。

 もし隼人と結婚して、翔太のような子供が生まれたらと思うと、ぞっとする。

 健太郎が時計を見ながら、苛立たしげに話を遮った。

「いい加減にしろ、今は喧嘩してる場合じゃない。飛行機に乗り遅れるぞ。荷物はどうなってる?」

 玄関先にはすでにミニバンが停まり、運転手が時間を気にしている。

「考えたんだけど」美紀子が言う。

「里奈さんは別の空港発でしょう? 自分の車で行ってもらいましょ。ちょうどいいわ、荷物も里奈さんの車に積めるし」

「だね。里奈さんが車出して、みんなの荷物運ぶのが一番効率いいよ」翔太が調子よく合わせる。

「君の荷物はまだまとめてないから、自分でやってくれ。それから、我々の荷物も一緒に運んでほしい。我々の空港は遠いから先に出るよ。乗り遅れるわけにはいかんのでな」健太郎も頷いた。

 最後に隼人が言った。

「里奈、この旅行は四ヶ月も前から計画してたんだ。こんな時にみんなの機嫌を損ねるような真似はしないでくれよ」

 五人でどうやったらスーツケース十個分もの荷物になるのか、神のみぞ知るだ。

 私は彼らをぐるりと見渡し、ふっと笑みをこぼした。

「ええ、わかったわ。先に行ってて。荷物を持って後から追いかけるから」

 彼らの車が見えなくなると、私はすぐにハウスクリーニング業者に電話をかけ、家中の徹底的な清掃を依頼した。

 清掃チームが到着すると、リーダーの男性が玄関に山積みになった十個のスーツケースを指差した。それは、翔太が自慢していた限定版のスノーボード、美紀子が見せびらかすための毛皮のコート、そしてアスペンでセレブ気取りをするために真奈子が詰め込んだ衣装ケース三つだ。

「お客様、こちらは……」

 『取扱注意』のステッカーが貼られた荷物を見て、リーダーが戸惑う。

「全部、処分してください」

「しかし、中には貴重品も入っていそうですが……」

「聞こえなかったかしら? この家に、ゴミを一つも残したくないの」

 リーダーは即座に口を噤み、部下に合図を送った。

 彼らはスーツケースを次々と運び出していく。

 続いて鍵屋に連絡し、すべての錠前を新しいものに交換させた。

 すべてを終えた私は、以前から誘われていたビジネスパートナーの藤原からの旅行の誘いを受けることにした。気分転換が必要だ。

 ハワイに到着した直後、隼人から電話がかかってきた。

「里奈! フロントで予約が見つからないって言われたぞ!」

 隼人の声には焦りと不満が滲んでいた。

「お前はどうしていつもそう不注意なんだ! こんなんで、どうやって俺たち家族の世話を任せられるって言うんだよ!」

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