第3章
「今日は家まで送るよ」
放課後のチャイムが鳴るや否や、私は逸る気持ちを抑えきれずに中村正樹の方を向いた。
彼は机の上の教科書を片付けている最中で、私の言葉にその手の動きをぴたりと止めた。
「いや、大丈夫。これからバイトがあるから」
彼は静かに断った。
「今日は早く終わるんじゃなかった? 店長からシフトを代わってもらったって聞いたけど」
私は彼のかばんから覗いているコンビニの制服を指差した。
正樹は驚いたように私を一瞥した。まさかそんなことまで調べ上げているとは思ってもみなかったのだろう。
彼は一瞬躊躇してから、ついにこくりと頷いた。
校門を出たところで、彼が不意にかばんから一冊のノートを取り出し、そっと私の手に押し付けてきた。
「物理のノート。昨日、よく分からないって言ってた章、まとめておいたから」
彼の声は、誰かに聞かれるのを恐れているかのようにとても小さかった。
ノートを開くと、整然とした文字と分かりやすい図表が目に飛び込んできた。私のためにわざわざ印をつけた要点や、問題の解き方まで書かれている。
「ありがとう、正樹君!」
私は嬉しくてノートを胸に抱きしめた。
道中、私は父が東京の青山に借りてくれた高級マンションのことを思い出していた。
そこは学校からほど近く、東京で最も高価な住宅街の一つだ。母が亡くなってからというもの、父は私の身の安全をことさら気にかけるようになり、家政婦さんを私の通学に付き添わせるほどだった。
「どっちの方向?」
正樹が問いかけ、私の思考を遮った。
私は前方の青山方面へと続く交差点を見つめ、ふと近藤さんが言っていた「佐藤家の破産」という言葉を思い出した。
もし正樹をあんな高級マンション街に連れて行ったら、昔の生活を思い出させて、彼の心を傷つけてしまうのではないだろうか?
「こっちだよ」
私はわざと青山へ続く道を避け、彼を別の通りへと導いた。
ごく普通のマンションの前で立ち止まり、三階の一つの窓を指差す。
「あそこ、私の家」
正樹は頷き、マンションに視線を一巡りさせたが、それ以上は何も聞いてこなかった。
彼は私の頭を軽くぽんぽんと叩き、口元に淡い笑みを浮かべた。
「また明日、隣の席の子」
去っていく彼の背中を見送りながら、その足取りが朝よりずっと軽やかになっていることに気づいた。
いつも生気のなかったあの瞳にも、明日への期待が少しだけ宿ったように見えた。
正樹が遠くへ行ったのを確かめてから、私はすぐに小走りで青山の高級マンションへと引き返した。
最後の角を曲がった時、そこに立っていた少年に危うくぶつかりそうになった。
「ごめんなさい!」
私は驚きの声を上げ、転びそうになる。
少年は素早く手を伸ばして私を支えてくれた。
「大丈夫かい?」
顔を上げた瞬間、私は息を呑んだ。目の前の少年は精悍な顔立ちに、気品のある佇まい、そして仕立ての良い制服を身にまとっている。
不思議なことに、その顔立ちは正樹とどこか微妙に似通っていた。
少年も私を値踏みするように見ていたが、その眼差しは驚きから次第に呆然としたものへと変わっていった。
「君は……」
彼は口を開いた。その声は清朗で心地よい。
「君も東京名門校の生徒だよね? どこかで……」
彼が言い終わる前に、楽しげな「ワンワン!」という鳴き声が私たちの会話を遮った。
私の飼っている柴犬がマンションの玄関から飛び出してきて、興奮した様子で私にじゃれついてくる。
「小太郎!」
私は慌ててリードを掴み、少年にそそくさと別れを告げた。
「ごめん、もう行かないと!」
去り際に、少年がまだ何か言いたそうにしているのを感じたが、私は小太郎を家に連れて帰るのに必死で、聞き取ることができなかった。
マンションのロビーの外で、あの少年は立ち尽くし、その視線は私の背中を追いかけていた。
しばらくして、彼は後を追おうと一歩踏み出したが、マンションの警備員に丁重に制止された。
「お客様、恐れ入りますが、どなたかをお訪ねでしょうか?」
少年は足を止め、道端に停めてあった黒塗りのセダンへと踵を返した。
車内に乗り込むと、彼はすぐさまスマートフォンを取り出し、LINEのグループチャットにメッセージを送った。
『さっき青山で女の子を見かけた。東京名門校の制服で、すごく綺麗だったんだけど、誰か知らない?』
グループチャットはすぐに盛り上がった。
『佐藤の御曹司、一目惚れかよ?』
『まさか、あの面食いの佐藤宗樹が普通の女の子に興味持つなんて』
『写真! どんな絶世の美女か見せてくれよ!』
佐藤宗樹はからかいを無視し、ただ一言返した。
『彼女が誰か調べてくれ。うまくいったら、クルージングに招待する』
彼は本革のシートに身を預け、先ほどの少女の輝く瞳と、花が咲くような笑顔を思い出していた。
一目惚れ、か。
東京有数の財閥の跡取りとして、幼い頃から蝶よ花よと育てられてきた佐藤宗樹に言い寄る相手は後を絶たなかったが、一度も心ときめいたことはなかった。この胸の高鳴りは、果たして一目惚れというものなのだろうか。
