第2章
祈りがようやく終わり、宮原知子は鉛のように重い身体を引きずって別荘へ戻った。
寝室に入った途端、スマホが鳴る。発信者は、かつてのクライアント――跨国建築グループの社長、岸江立人だった。
「スイスのテーマリゾート計画、どうする? 今の君が特殊な状況なのは承知してる。だが、そう何度も巡ってくる話じゃない。真剣に考えてほしい」
岸江立人は言葉を切らずに続けた。
「向こうの医療環境も世界トップクラスだ。君がその気なら、先に手配もしておける」
宮原知子は、かつて業界で名の知れた建築デザイナーだった。岸江立人のために設計したアート展示ホールは、今もなお建築界で「天才の仕事」と語られている。
長川家へ駆け込むように嫁いでいなければ――彼女はとっくに国際舞台で頭角を現し、世界のあちこちに自分の作品を残していたはずだ。
それが今はどうだ。
豪奢な檻の中に閉じ込められ、夫の冷たさに耐え、誰にも望まれていない子どものために、青春も健康も尊厳も削り取られていく。
窓の外に目をやると、昼間の駐車場で見た光景が脳裏を掠めた。長川輝夫と葉山歩美。近すぎる距離。あまりに親密な仕草。
「考える必要なんてない」
宮原知子は静かに言った。
「決めた。行くよ」
それから知子は、長らく放り出していた設計資料を引っぱり出した。使えるものをいくつか選び、手を入れて整える。履歴書も作り直した。
気づけば、日が傾きかけていた。
何か口にしようと階下へ向かいかけ、書斎の前を通ったときだった。
中から、周防礼美と長川輝夫の声が漏れてきた。
「輝夫、今日ね、宮原知子を小岩牧師に会わせてきたの。牧師が何て言ったと思う? あの女、悪霊に取り憑かれてるって。うちを滅ぼしに来たんですってよ」
「母さん、牧師の言うことを鵜呑みにするなよ。くだらない」
「本当なの!」礼美は語気を強めた。「あの女がうちに来てから、私、毎晩悪夢ばかり。今日は祈りだって言って教会に連れていったら――入った瞬間、屋根の上がカラスだらけよ。邪気じゃなくて何だっていうの?」
輝夫は黙ったままだった。
礼美が畳みかける。
「輝夫、忠告よ。早く離婚しなさい。私はね、あの女の顔なんて一日だって見たくないの」
少し間を置いて、輝夫が重たく口を開く。
「……知子は俺を助けた。軽々しく離婚したら、グループの株価にも響く」
「分かってるわよ」礼美は息子の手をぽん、と叩き、声を落とした。「だからね、あの女に『失敗』をさせればいいの。そうすれば、堂々と追い出せるでしょう?」
扉の外で、宮原知子は動けなかった。
胸の奥が詰まって、息が苦しい。指先が勝手に震える。
――結局、この家で自分は、最後まで余所者なのだ。
それなら、何を演じる必要がある?
従順な長川奥さんなんて。
もう、とっくに限界だった。
夜になって、叔母から電話がかかってきた。金を貸せ、という。
長川家に嫁いでから、叔母はしょっちゅう金の無心をしてきた。揉め事にしたくなくて、知子はこれまで自分の貯えをこっそり送ってきた。
だが、今回は違う。
「叔母さん。私はもう嫁いだの。あなたたちとは、本来もう関係ない。これ以上お金を渡す義務はないわ」
一拍の沈黙のあと、叔母が怒鳴った。
「はあ? 名門に嫁いだ途端、偉そうに! うちでタダ飯食ってた頃のこと、もう忘れたの!? 私と叔父さんがいなきゃ、あんた今ごろ路上で物乞いしてたんだからね!」
知子は鼻で笑った。
「この数年で、私からいくら取ったか数えたことある? 子ども十人養えるくらいよ。それに、私が子どもの頃、あなたたちがどう扱ったか――忘れてないから」
叔母の家で、腹いっぱい食べた記憶なんてない。パンをもう一切れ欲しがるだけで、針みたいな視線を突き刺された。
学費だって出したがらなかった。
成績で学費を免除されなければ、どうなっていたか分からない。十四になる前から働き詰めで、ようやく生き繋いだ。
言い返せなくなった叔母は、次は脅しに出た。
「じゃあ、輝夫さんに直接言うから! うちに金を回してくれって!」
「好きにすれば」知子は淡々と言った。「どうせ、私たち離婚するから」
「り、離婚!?」叔母の声が裏返る。「本気なの? 本当なの?」
「どうしたの。金づるが消えそうで焦った?」
「宮原知子、調子に乗るんじゃないよ!」叔母は喚いた。「自分がどんな女か分かってるの!? 長川輝夫に嫁げたのだって、神様のお恵みだよ! それなのに離婚だなんて、よく言える!」
もう相手をする気にもなれない。知子は通話を切った。
顔を上げた瞬間、廊下の向こうに、使用人のアンニが立っていた。いつからいたのか分からない。
「何か用?」知子はこめかみを押さえ、疲れた声で尋ねた。
どれだけ聞かれていようが、今さらどうでもよかった。
「奥さまが……奥さまがお呼びです」アンニはおずおずと言う。
以前の知子なら、礼美の呼び出しには飛んでいっただろう。だが今は、心が灰になっていた。何もしたくない。
「具合が悪いって言って。用があるなら明日にしてって」
アンニが目を丸くした。いつも俯きがちで従順だった若奥さまが、拒んだのだから当然だ。
それでもアンニが動かないので、知子は眉を上げた。
「まだ何かあるの?」
「い、いえ……ありません」アンニは最後に小さく頭を下げ、扉を閉めて去っていった。
翌朝。
知子が階下へ降りると、周防礼美が朝から来ていて、長川輝夫とダイニングで何か話していた。
知子はまっすぐ席へ向かい、何事もなかったようにベリーのパンケーキを一切れつまむ。周囲の空気が、ふっと固くなった。
礼美が知子を横目に見て、わざとらしくため息をつく。
「はあ……やっぱり小門小戸の出は違うわねえ。作法ってものを知らない。葉山さんみたいに、堂々として礼儀正しい子もいるのに」
葉山歩美――その名前だけで、知子の手がわずかに震えた。
礼美は以前にも、本人の前で葉山歩美を褒めたことがある。そのときは気にも留めなかった。
だが今になって分かる。礼美は、知子より早く、歩美の帰国を知っていたのだ。妻である自分だけが、何も知らされずにいた。
輝夫がスマホをテーブルに置き、粥を静かに啜る知子を冷えた目で見た。
「昨日のお前、度が過ぎたな」
知子はゆっくり飲み込み、ナプキンで口元を拭く。声は驚くほど落ち着いていた。
「何が、度が過ぎたの?」
「母さんがお前を呼んだ。なのに、なぜ断った」
「ああ、それ」知子は淡々と返す。「体調が悪かったから。早く寝たの」
輝夫の眉間が深く刻まれる。
「宮原知子。いつからそんなに面倒くさい女になった」
「面倒くさい?」知子は口元だけで笑った。嘲りが滲む。
「じゃあ何。具合が悪くても、呼ばれたらすぐ走れって? あなたが欲しいのは、奥さん? それとも家政婦?」
輝夫の顔色が一変した。
「宮原知子。お前がどういう形で長川家に入ったか、分かってるだろう。お前をこのまま『長川奥さん』として置いてやってるだけで、十分仁義は通してる。これ以上、俺に恥をかかせるな」
知子は、目の奥が乾いていくのを感じた。
「長川輝夫……何度言えばいいの。あの事故は、私が仕組んだんじゃない。どうして信じてくれないの?」
輝夫は答えない。沈んだ目が、ただ不気味なほど冷たい。
――もう、無理だ。
知子は箸と椀を静かに置いた。
「……分かった」
そして、息を吸う。
「だったら、離婚しよう」
