第3章
周防礼美の瞳に、ぱっと喜色が走った。慌てて言う。
「今の、あなたが言ったのよね。あとで後悔しない?」
長川輝夫は眉をひそめ、思いがけないものを見るように宮原知子へ視線を向けた。
宮原知子は小さくうなずき、淡々と言った。
「でも条件があるの。長川家の株を10%。この二年間の精神的苦痛に対する慰謝料として」
周防礼美が声を荒らげる。
「頭おかしいんじゃない? この二年、あなた長川家のものを持ち出して、あなたのおばさんにどれだけ貢いだと思ってるの。まだ足りないっていうの? 株まで寄こせって?」
宮原知子は一瞬、言葉を失った。そして食卓の脇に立っているアンニに目を向ける。
アンニはばつが悪そうに視線を落とした。
――無理もない。アンニは長川家の使用人だ。彼女の味方をして、隠し通せるはずがない。
宮原知子は薄く笑う。
「お母さま、言うなら証拠を出して。私、長川家に嫁いでから今まで、一度でもお金をくださいって手を出しました?」
周防礼美は不満そうに唇を尖らせる。
「さあね。こっそり家の物を持ち出してないって、誰が証明できるの」
宮原知子は椅子から立ち上がった。背筋を伸ばし、まっすぐに言い切る。
「じゃあ今すぐ、私の部屋を捜して。長川家の物が一つでも出てきたら、十倍にして弁償する」
周防礼美はぽかんと口を開けたまま、言葉が出てこない。
――今日の宮原知子、どうかしている。いつもの伏し目がちで従順な姿はどこへ行ったのか。
二人の言い合いに、長川輝夫がこめかみを押さえた。
「もういい、二人とも少し黙れ」
「すみませんね。私は、濡れ衣だけは我慢できない性分なんです」
それだけ言うと宮原知子は長川輝夫の顔色も見ず、踵を返して階段へ向かった。
数分後。
彼女はシンプルな服に着替え、薄化粧を整え、バッグを手にして階段を下りてくる。
長川輝夫が訝しげに問う。
「どこへ行く」
「あなたには関係ない」
宮原知子はそう言いながら、前もって用意していた離婚届の書類を彼に投げるように差し出した。
「私はもう署名した。長川様もサインして」
長川輝夫は書類に目を落とすなり、乱暴に引き裂いた。
宮原知子は表情ひとつ変えない。
「いいわ。好きなだけ破って。あなたが署名するまで、私は何度でもコピーする」
「宮原知子……いい加減にしろ」
「望んでたのはそっちでしょう?」
宮原知子は静かに言う。
「追い出されるのを待つより、私から出ていく。その方が、少なくとも長川の株価は守れる」
言い終えると、彼女は振り返りもせずに別荘を出ていった。
「輝夫……あの子、本気で離婚するつもり?」
周防礼美が小声で問う。
長川輝夫はネクタイを乱暴に引き、吐き捨てるように言った。
「ただの意地だ。すぐ落ち着く」
宮原知子は、死んだら自分と同じ墓に入りたいとまで言っていた女だ。そう簡単に離れていくはずがない。
――どうせ、駆け引き。面倒くさいだけだ。
「本当に離婚するって思ったのに……ぬか喜びだったわ」
周防礼美はぶつぶつ言いながらも、どこか引っかかる顔をした。追いかけて様子を見た方がいいのでは、と口にする。
宮原知子が外で何かあれば、世間はきっと「長川家が命の恩人を虐げた」と騒ぎ立てる。
長川輝夫は冷たく言い切った。
「放っておけ。冷静になったら、自分から戻ってくる」
——
宮原知子の胸は、すっかり冷え切っていた。
――もっと早く、この家を出るべきだった。
三年。青春を無駄にした。
外の陽射しがまぶしく、肌に当たるとぽかぽかと温かい。宮原知子は手で光を遮りながら、今日ほど身体が軽い日はなかったと感じる。
彼女はタクシーを拾い、華誉国際センターへ向かった。
岸江立人は、すでにそこで彼女を待っていた。
宮原知子の姿を見つけると、岸江立人はデスクの向こうから立ち上がり、早足で近づいてくる。そして自らぬるめの白湯を用意し、差し出した。
宮原知子はカップを受け取り、言葉を選びながら切り出す。
「スイスの案件について……ひとつ、個人的な事情をお伝えしたいことがあって」
岸江立人は向かいに座り、少し身を乗り出した。
「どうぞ」
宮原知子は指先をわずかに丸める。
「離婚するつもりです。渡航してプロジェクトに参加する前に、夫と手続きを済ませます。この件で、協業に支障は出ますか」
オフィスに沈黙が落ちた。
岸江立人は彼女を見つめる。その眼差しにあるのは驚きや困惑ではなく――最初から分かっていたような、穏やかな静けさだった。
「宮原知子」
彼はゆっくり口を開く。
「あなたをお招きしたのは、あなたにしかない設計の才能を評価したからです。結婚しているかどうかは、一切関係ありません」
少し間を置き、ふっと笑う。
「それに、あなたがどんな人生の選択をしても、私は応援します。ここまでのことを経験して、それでも夢を拾い直した。あなたの勇気を、心から尊敬しています」
宮原知子は、鼻の奥がつんと痛んだ。視界がにじみ、目尻が熱くなる。
――いつ以来だろう。誰かに「認められる」なんて。
陸田家で浴びせられるのは、毎日が侮辱と嘲笑だった。いつしか、自分でも「役に立たない重荷」だと思い込むようになっていた。
それなのに、この人は――たった一度仕事をしただけで、ここまでの信頼をくれる。
宮原知子は、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた気がした。
この結婚は、最初から最後まで、笑い話みたいなものだったのだと。
「ありがとうございます、岸江様。私事はきちんと片づけます。プロジェクトの進行や品質に、絶対に影響は出しません」
「礼は要りません。あなたが、それに値するだけです」
岸江立人は微笑み、静かにうなずいた。
岸江立人のオフィスを出たあと、宮原知子はエレベーターの壁にもたれた。
心は、これまでにないほど凪いでいる。
あとは家に戻って長川輝夫に離婚の意思を伝えるだけ。それで、本当の人生が始まる。
一階に着き、扉が開いた瞬間。
彼女は、見覚えのある人影と正面からぶつかった。
葉山歩美。
ブランド物で固めた装いに、隙のないメイク。宮原知子を見た途端、驚いたように口を開き、無邪気な表情で言った。
「おばさん、どうしてここにいるの?」
