第6章

夜――長川輝夫が戻ってきた。

風呂上がりの宮原知子は、ヴィラの空気が一気に冷えた気がして、思わず肩をすくめた。

「葉山歩美に手を上げたのか」

長川輝夫の問いに、宮原知子は手を止め、ゆっくりと目だけを上げる。

怒りも、悔しさもない。瞳の奥には、もう波ひとつ立っていなかった。

まるで――長川輝夫という存在が、どうでもいい他人に成り下がったかのように。

「ええ」

あまりにあっさりした返事だった。

長川輝夫が用意していた叱責は、そのまま喉の奥でつかえた。

言い逃れも、泣き落としも、声を枯らしての糾弾も――そういう類は想像していた。

だが、ここまで無関心な「当然です」とでも言うような平然さだけは、考えていなかった。

そして、それが余計に苛立ちを煽る。

「宮原知子。嫉妬にも限度があるだろ。いつからそんな話の通じない人間になった? 離婚するって言ったよな。出ていくって言ったよな。だったら、これは何なんだ」

宮原知子は可笑しくなって、口元だけがわずかに引きつった。

笑ってやる義理すらない、そんな顔。

「長川輝夫、勘違いしないで。新しい離婚協議書は机の上。サインして。明日、私は出ていくから」

その言葉は細い針みたいに、長川輝夫の神経をちくちく刺した。

彼がいちばん嫌うのは、彼女のその態度だ。

「離婚? 寝言は寝て言え。二度と葉山歩美に手を出すな」

怒りで張りつめた顎のラインを見つめながら、宮原知子は、すべてが途方もなく色褪せていくのを感じた。

言い返してどうなる。

説明して、何が変わる。

最初から有罪を決めている裁判官の前で弁明したところで、削れるのは自分の体力と心だけだ。

疲れた。もう、本当に。

「言いたいことはそれで終わり? 終わったなら出て。休みたいの」

「宮原知子!」

長川輝夫は一歩踏み込み、彼女の手首を掴んで無理やり顔を上げさせようとした。

だが、伸ばした手は途中でふっと止まる。

彼女の机の上が――ひどい有様だったからだ。

建築の設計図。紙の縁は黄ばんでいて、相当古い。

そこに濃い茶色の染みがべったり広がり、かつてシャープだった線は滲んでぼやけ、緻密な構想は汚れの塊みたいになっていた。

長川輝夫の喉仏が、ごくりと上下する。

胸に何かが詰まったようで、言葉が出なかった。

初めて宮原知子を見たのは、酒の席じゃない。

建築デザインのフォーラムだった。

壇上の彼女は、飾り気のない服に、高く結んだポニーテール。

自信と挑発がそのまま形になったような佇まいで、自分の作品を語る瞳には、星が散ったみたいな光が宿っていた。

――あの瞬間、確かに心が動いた。

けれどその気持ちは、あの「事故」と、界隈に流れた噂話に、少しずつ削られていった。

壊された図面と、目の前の女を見比べる。

うつむいた彼女は、太ってしまった輪郭に、疲労と寂しさだけを貼りつけている。

胸の奥で燃えていた得体の知れない火は、いつの間にか鎮まっていた。

代わりに残ったのは、もっと複雑で、彼自身にも名付けられない鬱陶しさ。

結局、長川輝夫は何も言わなかった。

冷えた顔のまま踵を返し、ドアを叩きつけるように出ていく。

重い扉の音が響いたあと、世界はまた静かになった。

宮原知子は聞こえていないかのように、図面の滲んだ墨跡をそっと撫でる。

それは、彼女が幾晩も眠らずに引いた線だ。

別の世界へ渡るための、たった一枚の切符。

葉山歩美が壊したのは、紙切れなんかじゃない。

宮原知子は図面を一枚ずつ慎重に剥がし、床に広げていく。

少しでも早く乾けば、もしかしたら取り返せるかもしれない――そんな淡い期待で。

作業を終えると、彼女は振り返りもしないでベッドに潜り、布団で頭まで覆った。

その夜、眠りは浅かった。

夢の中でさえ、線が絡まり、建物が崩れていく。

翌朝。

窓の外で小鳥がコツコツとガラスをつつく音に起こされる。

昨夜の作業のあと、酒を少し飲んだせいか、頭がぼんやり重い。

目が覚めた気がしないまま起き上がり、床を見る。

――何もない。

使用人がゴミと間違えて片づけたのだろうか。

胸の奥がすとんと沈み、理由のわからない喪失感が湧いた。

けれど、ふと横を向いた瞬間、宮原知子は固まった。

書机の上。

図面がきっちり揃えて積まれている。

昨夜、汚されたはずの設計図だ。

駆け寄り、いちばん上を取る。

乾燥させて平らに伸ばされているだけじゃない。

茶渍で滲んだ線が、プロ用の修復ペンで一筆一筆、丁寧に引き直されていた。

技術が異様に高い。

損傷の跡がほとんど見えないどころか、彼女が描いた線より正確なくらいだ。

脳裏に、長川輝夫の冷たい横顔が浮かぶ。

一晩で専門の手を手配して、ここまで直させる――そんなことができるのは、彼しかいない。

宮原知子は自嘲するように笑った。

自分が悪くないとでも思った、その埋め合わせ?

昔から、彼女が感情を爆発させるたび、長川輝夫は痛くも痒くもない贈り物で宥めてきた。

けれど、もうどうでもいい。

図面を丁寧にまとめ直し、箱に戻す。

それ以上この件に囚われないまま身支度を整え、きりっとした仕事用のスーツに着替え、鞄を持って家を出ようとした。

ダイニングには、長川輝夫と周防礼美がいた。

周防礼美は最近、やけに頻繁にここへ顔を出す。

「待ちなさい」

周防礼美が不機嫌そうに呼び止める。

「朝っぱらから、食事も取らずにどこへ行くの」

宮原知子が返さないと、声量が上がった。

「話してるの、聞こえないの? 今日は礼拝に連れて行くって言ったでしょ!」

長川輝夫はコーヒーカップを置いた。

声が少し掠れている。昨夜、眠れなかったのだろう。

「行かせろ」

周防礼美は意外そうに息子を見る。

だが最後は、忌々しそうに口をつぐんだ。

宮原知子は靴を履き替えると、振り返りもせずにドアを開け、外へ出る。

眩しいほどの朝日。

深く息を吸い、予約していた法律事務所へタクシーを走らせた。

「宮原さん、こんにちは。幸村弁護士です」

きちんとした身なりの、四十代くらいの女性が応対に出る。

「幸村弁護士、よろしくお願いします」

宮原知子は無駄話をしなかった。

現状と希望を、淡々とすべて並べる。

「離婚したい。それと、長川輝夫が保有する長川グループの株式のうち10%を、結婚してからの三年間に受けた精神的・身体的損害の補償として請求します」

幸村弁護士はメモを取りながら最後まで聞き、眼鏡を押し上げて、実務的に言った。

「宮原さん。婚姻中の財産分与については、法律上の基準が明確にあります。ただ――」

「ただ、宮原さんがお求めの株式は、長川さんの婚前財産に当たる可能性が高い。ここを取るのはかなり難しいです。よほどの事情がない限り……」

「よほどの事情って、具体的には?」

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