第7章
「――あなたが慰謝料を請求するなら、前提として証明が必要です。婚姻期間中にご主人に重大な落ち度があった、たとえば不貞や暴力などで、あなたが深刻な精神的苦痛を受けたと示せること。そうすれば裁判官の判断でも、慰謝料については斟酌されます」
幸村弁護士は終始、淡々としていた。
「要するに、必要なのは証拠です」
証拠――。
宮原知子は、言葉を失った。
長川輝夫が外で不潔な真似をしていることは、薄々わかっていた。けれど、自分から確かめに行こうなどと思ったことはない。
それは互いの最後の体面を守るためでもあり、同時に、自分を騙してやり過ごすためでもあった。
「それからもう一点」
幸村弁護士は続ける。
「妊活のために長期でホルモン剤を使用し、その結果としてお身体に損傷が出たというお話ですが、こちらも病院の詳細な診断書と、因果関係を示す資料が必要になります」
結婚を終わらせるには、こんなにも冷静で――時に冷酷な――精算が要るのか。
宮原知子は、きっぱりとは立ち去れないのだと知る。
ただ『出ていく』と決めさえすれば、颯爽と背を向けられる。そう思い込んでいた。
「……わかりました」
彼女は小さくうなずいた。
「証拠、集めます」
弁護士事務所を出た瞬間、宮原知子は自分の中で何かが繋がった気がした。
この三年、感情という檻の中で生きてきた。愛しているのか、もう愛していないのか。その狭間で身を削り続けて。
でも今は、ようやく進むべき方向が見えた。
欲しいのは長川輝夫の愛じゃない。自由だ。そして、受け取るべき補償。
彼女はスマホを開き、連絡先を探って、ずっと連絡を取っていなかった番号へ発信した。
「もしもし。私、宮原知子。お願いがあるの。人をひとり調べてほしくて」
弁護士に会ってからの宮原知子は、まるで別人だった。
別荘の中のことには一切関わらず、朝早く出て夜遅く帰る日々。
ほとんどの時間を、岸江立人のチームと過ごした。スイス案件の細部を詰め、設計案を磨き上げる。
結婚生活の摩耗で削られていた刃と光が、少しずつ戻ってくる。
「最近、どんどん顔つきが良くなってる」
打ち合わせが終わったあと、岸江立人がコーヒーを差し出した。
「目標が見えたら、人って迷わなくなるんでしょうね」
宮原知子は受け取り、ひと口含む。舌先に苦味が広がり、むしろ頭が冴えた。
視線が交わり、ふっと笑う。言葉にしなくても通じるものがあった。
ふたりのやり取りはあくまで仕事の延長で、息も合う。それでいて距離は――絶妙に保たれていた。
だが、その一瞬が。
少し離れた場所から、誰かに撮られていた。
葉山歩美は車内でスマホを見下ろし、宮原知子と岸江立人が楽しげに話している写真を眺めながら、口元を冷たく歪めた。
ここ最近、焦りが募っていた。
宮原知子は挑発されて壊れるどころか、むしろどんどん普通の人間みたいに生き始めている。
長川輝夫の周りをうろつかない。長川輝夫が『家で食事をしよう』と連れ戻しても、まるで意に介さない。
嫉妬もせず、騒ぎもしない正妻は、泣き喚く狂女よりよほど厄介だ。
葉山歩美はスマホを握りしめる。
宮原知子が、こんなにあっさり立ち直るなんて認めない。
数日前、長川輝夫が宝飾店で気まぐれに買ってくれたダイヤのネックレス。その写真を引っ張り出す。
値の張る、今年の新作。
どこで手に入れたのか宮原知子の電話番号へ、編集して送りつけた。
「お姉さん、輝夫お兄ちゃんがくれたの。似合う? 私の肌の色に映えるって」
送信。
あとは宮原知子が崩れるのを待てばいい。
夫が他の女にこんな高価な贈り物をするなんて、耐えられる女がいるはずない。
――なのに。
一分。十分。三十分。
返事は来ない。海に石を投げたみたいに、沈黙だけ。
宮原知子は句読点ひとつ、返してこなかった。
そのころ宮原知子は、カフェでスマホ画面のきらめくネックレスを眺めていた。
表情は、ぴくりとも動かない。
淡々と画像とやり取りをスクリーンショットに収め、まとめて圧縮し、暗号化して、新しく作ったメールアドレスへ送信した。
全部、離婚交渉の材料になる。
作業を終えるとスマホを伏せ、目の前の建築資料へ視線を戻す。さっきの出来事など、最初から無かったかのように。
葉山歩美の挑発は、宮原知子にとっては相手が自分から差し出してきた提出物に過ぎない。
――むしろ、少し感謝したいくらいだ。その浅はかさに。
夜、別荘へ戻ると、珍しくリビングの灯りがついていた。
長川輝夫が帰っている。
しかも泥酔で、ソファに沈み込んでいた。ネクタイは乱暴に引きちぎられたように歪み、鼻を刺す酒臭さに、見知らぬ女物の香水が混じっている。
アンニがそばでおろおろしていた。
「若奥様……! お帰りなさい。若様が飲みすぎてしまって、私たちが触るのも嫌がって……」
以前の宮原知子なら、すぐに駆け寄っていた。熱いタオルを絞って、酔い醒ましのスープを作って、息をひそめるように世話をする。
でも今日は、ただ一度だけ視線を流し、アンニに言った。
「人を二人呼んで、若様を若様のお部屋に運んで。私は用があるから、騒がないで」
そう告げると、ソファの横を通って階段へ向かった。
すれ違う、その瞬間――。
熱を持った大きな手が、彼女の手首をがしっと掴んだ。
長川輝夫がいつの間にか目を開けている。薄暗がりの中で、その瞳はぞっとするほど黒い。酔いと、知子には読み取れない何かが、底で渦巻いていた。
「……どこ行く」
掠れた声。
「部屋に戻るだけ」
振りほどこうとしたが、指が食い込むほど強く握り直される。
昔なら、その触れ方さえ嬉しかった。あとで彼が『汚れた』みたいに手を洗いに行っても、気にもしなかったのに。
次の瞬間、乱暴な力で引き寄せられた。
バランスを崩し、彼の膝の上に落ちる。
むっとする男の体温と酒気が押し寄せ、胃の奥がきりきりと波打った。
「宮原知子……」
長川輝夫が顔を寄せる。熱い吐息が首筋を撫で、逃げ場のない圧がかかる。
「最近、俺を避けてるだろ」
「避けてない」
「避けてる」
もう片方の手が顎を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「毎日、朝から晩までいない。会っても見えてないみたいな顔。何が不満なんだ」
近い。唇が触れそうなほど。
久しく忘れていた甘さと、拒む余地のない強引さ。
その光景が、半年前の夜を容赦なく引きずり出す。
彼は酒を纏って帰ってきて、理屈も事情も関係なく彼女を押し倒した。欲望のままに貪り、ただのはけ口みたいに扱った。
終わったあと――彼が見せた、触れたくもないものを見るような嫌悪の目。
あれだけは、今でも忘れられない。
そして、彼女を何度も惨めにした。
「長川輝夫……飲みすぎよ」
宮原知子は我に返り、顔を背けて唇を避けた。
その拒絶が、彼の中の火に油を注いだらしい。
低く唸り、手が彼女の身体を遠慮なく探る。
「お前は俺の妻だろ。義務を果たせ。何が悪い」
