第1章
私は桜の霊前に跪坐し、素色の和服を身に纏い、手を合わせていた。背後から聞こえてくる、弔問に訪れた京都の名家の夫人たちの、声を潜めた噂話に耳を傾けながら。
「安信様はまだ北海道ですって。何かの伝統工芸展に参加されているとか……」
「まあ、本当にお気の毒に。あんなに可愛らしいお子さんだったのに」
「でも、そういえば、知春さんというお嫁さんは……」
声がさらに低くなる。
「そもそも子供ができたから嫁いでこられたのでしょう？ 西村家は本来、安信様を茶道剣家のお嬢様、霜子様と娶わせるおつもりだったのに」
「しっ、声が大きいですわ。でも確かに、霜子様こそが本当にお家柄が釣り合っているわね」
私は桜の霊前で取り乱すまいと、固く下唇を噛み締めた。
朦朧とする涙の向こうに、彼の安らかな寝顔を見つめる。
私の五歳の息子は、もう二度とあの澄んだ瞳を開けることはないのだ。
「安信様の携帯は今も連絡がつかないそうですわ。なんでも、猛吹雪で通信が途絶しているとか……」
猛吹雪？ 通信が途絶？ 私の爪が、掌に深く食い込んだ。
三日前、桜の五歳の誕生日。安信は確かに霜子からの電話に出て、私の目の前で冷淡にこう言ったのだ。「悪い、霜子が待っている」と。
そして、振り返りもせずに立ち去った。
それなのに今になって、連絡がつかないですって？
「あらまあ、あの子は本当に可哀想に。小さい頃から父親の愛情をあまり受けられなかったものね……」
「しーっ……」
突然、私は目眩を感じ、目の前が真っ暗になった。
最後に聞こえたのは、磁器が床に落ちる甲高い音と、人々の驚く声だった。
目が覚めた時、私は自室の和室で横になっており、頭が割れるように痛んだ。
窓の外には西村家の庭にある樹齢百年の桜の木が見えるが、今はただ禿げた枝が広がるばかりだ。
「桜……」
私は息子の名前を呟き、再び涙が堰を切ったように溢れ出した。
三日前の光景が、またしても脳裏に蘇る。
「お父さん、本当に誕生日を一緒に過ごしてくれないの？ 清水寺に桜を見に行きたいな……」
桜は私が新しく買ってあげた伝統的な小袴を着て、荷物をまとめている安信を恐る恐る見上げていた。
「悪い、霜子が待っているんだ。北海道の伝統工芸展は重要でね」
安信は一度も彼に視線を向けようともしなかった。
「じゃあ、いつ帰ってくるの？」
「さあな」
北海道の工芸展が本当にそんなに重要だろうか。半年に一度は開催されるもので、安信が欠席したことだってある。ただ、今回は霜子がいるというだけのことだ。
「お母さん、お父さんはいつになったら帰ってきて、一緒にいてくれるの？」
桜は私の方を振り向き、その瞳には悔しさと期待が入り混じっていた。
あの時、私はどう答えればよかったのだろう？
お父さんはもう永遠に帰ってこないかもしれない、と？
お父さんの心の中には霜子おばさんしかいないのよ、と？
私が苦しい記憶に浸っていると、和室の襖が静かに開いた。
安信が入ってきた。相変わらずの、あの端正で冷たい顔。北海道の寒気と、霜子がつけているジャスミンの香水の匂いをその身に纏っている。
彼は私のそばに座り、ただ一言、こう言った。「悪かった」
それだけ？ たった一言、悪かったと？
私はかつて深く愛したその顔を見つめ、初対面の祇園祭で見せた彼の穏やかな笑顔を、かつて私に上着をかけてくれたあの少年を思い出した。
しかし今、目の前に座るこの男の瞳には、一片の温度も宿っていなかった。
「桜には会ったの？」
私の声は恐ろしく掠れていた。
「会ってきた」
彼の返事は短く、平然としていた。
「あの子が逝く時……」
私の声が震え始める。
「お父さんって、呼んでた……」
安信の眉が僅かに顰められたが、すぐに平静を取り戻した。
「電話に出られなかったのは、山に入ってから通信機器が故障したせいだ」
山に？ 通信機器が故障？
私は思わず笑いたくなった。
三日前、あなたは確かに霜子の電話に出られたのに。今になって通信機器が故障したと言うの？
「じゃあ、どうして霜子さんの電話には出られたの？」
安信の顔色が変わった。
「知春、今はそんなことを言い争っている場合じゃない。何か食べるべきだ。この数日、何も食べていないんだろう」
彼は話を逸らしている。
私はこの男をよく知っている。後ろめたいことがあると、いつもこうやって気遣うふりをして誤魔化すのだ。
「私の質問にまだ答えてくれていないわ」
私は身を起こし、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「どうして霜子さんの電話には出られたの？」
安信は数秒黙り込んだ後、冷たい視線を私に向け、問い詰めてきた。
「どうしてあいつを一人で出かけさせたんだ？ 君は俺に説明すべきだと思うがな。五歳の子供が、君の監督下で事故に遭った。母親として、君に責任はないとでも言うのか？」
彼の言葉は、刃となって私の心臓に突き刺さった。
私はこの男を、かつて愛したこの顔を見つめ、心の底から深い寒気を感じた。
「あなたに会いに行ったのよ」
私の声が震え始めた。
「あの子は何度もあなたに電話した。でも、一度も繋がらなかった。お父さんはいつ帰ってくるのって私に聞いたけど、どう答えたらいいか分からなかった。清水寺であなたを待つって言ってた。誕生日には一緒に桜を見に行く約束をしたって……」
「俺がいつ、あいつとそんな約束をした？」
安信の声はさらに冷たくなった。
私は目眩がした。
そうだ。彼がいつ桜と約束などしただろうか。それは全て、子供の一方的な幻想であり、私が子供のために紡ぎ出した、美しい嘘だった。
「私が間違ってた……」
私の声は嗚咽に変わる。
「私が、身の程知らずにもあなたを好きになったのが間違いだった。子供ができればあなたに愛してもらえると思ったのが間違いだった。この子を産んで、生まれた時から辛い思いばかりさせたのが、間違いだったの……」
その時、和室の襖が乱暴に開け放たれた。
西村家の叔母が、殺気立って部屋に飛び込んできた。黒の正装和服を身に纏い、その顔は青ざめている。
「パンッ！」
乾いた音が響き、私の頬に平手打ちが炸裂した。
「子供一人まともに見ていられないなんて、母親失格じゃないの！」
叔母の甲高い声が耳をつんざく。
「西村家の顔に泥を塗って！」
火のように熱い頬を押さえ、涙が瞬く間に溢れ出た。
この一撃は、ただ桜の事故だけが理由ではない。この数年間、彼女が私という「よそ者の嫁」に対して抱いてきた不満の全てが凝縮された爆発だった。
私が西村家に嫁いだ初日から、この叔母は私に良い顔を見せたことがなかった。
ことあるごとに、私が西村家の家柄に相応しくないこと、できちゃった結婚で潜り込んだのだということを仄めかしてきた。
桜が西村家の年長者に懐こうとするたび、彼女はいつも「血が不純だ」「しつけがなっていない」などと言って冷たくあしらった。
私は安信の方を向いた。彼が一言でも、たった一言でも、私のために何か言ってくれることを願って。
しかし彼は冷ややかに傍観しているだけで、その瞳には煩わしささえ浮かんでいる。まるで、私たちの諍いが彼を邪魔しているとでも言いたげに。
これが安信——かつて大学で私のために雨を遮ってくれた少年、一生守ると言ってくれた男。今、彼はそこに座り、私が彼の家族に辱められるのを見ているだけで、何もしない。
桜が生前、私に言った言葉を思い出す。
「お母さん、どうして大叔母様は僕のこと嫌いなの？ 僕、何か悪いことしたかな？」
桜が西村家の者たちに気に入られようと、いつも健気な努力をしていたのに、いつも冷たくあしらわれていた姿を思い出す。
この五年間、私がこの古い町家で耐えてきた全ての冷たい視線と嘲りを思い出す。
突如、心の底から怒りが湧き上がってきた。
「パンッ！」
私は立ち上がり、ありったけの力で叔母の頬を打ち返した。
西村家の和室は、針一本落ちても聞こえるほど静まり返った。叔母は頬を押さえ、信じられないといった顔で私を見ている。安信も驚いて顔を上げた。
「この一発は、お返しすべきものです」
私の声は恐ろしいほどに平静だった。
「五年です。丸五年、私はあなた方の全ての侮辱と冷たい視線に耐えてきました。私を見下すのは我慢できます。でも、私の子供を傷つけることは我慢なりません」
私は安信に視線を向けた。その瞳には、もはや何の期待もなかった。
「もう、桜は逝ってしまいました。私がこれ以上、全てを我慢し続ける理由はありません」
