第4章
余計な厄介ごとを増やさないためにも、比良恒一は即座に決断した。ハンドルを切ってUターン、アクセルを踏み込んで一気に逃げる。遠回りになろうが、あの数体の幽霊と真正面から鉢合わせるよりはマシだ。
だが、幽霊たちの目にはそれが「脅されて引き下がった」ように映ったらしい。しかも、これで彼らがもう一度助けを求める道も断たれた。そう思うと、かえって気の毒になってくる。
「さっきの長髪の女、マジでヤバいな。見た目だけでも人殺せそうなのに、やることまでエグい!」
「だよな。歩き方もフラフラで今にも倒れそうだったし、顔色も青白くて死人みたいだった。押したら転びそうなのに、男二人を従わせるとか……」
「なんか特別な術でも持ってんのか? 殴られたとこ、めっちゃ痛いんだけど」
「俺ら、遭遇しなくてよかった……」
「それな、それな!」
そう言い合った瞬間、幽霊たちは自分たちがとんでもなく幸運だった気がしてきた。改めて比良恒一と寺田大辅を見れば見るほど、哀れに思えてくる。
SUVが反転して走り去るのを見送りながら、彼らは腕を精いっぱい伸ばし、遠くからぶんぶん手を振った。どうか無事で。さようなら――そんな祈りが、妙に真に迫っていた。
ところが、SUVはブオォンと唸りを上げ、さらに速度を上げて闇へ溶けるように消えた。
……
バックミラーの中で幽霊たちが小さくなり、やがて黒い霧に呑まれて完全に見えなくなったころ、比良恒一と寺田大辅はようやく息を吐いた。
――もう二度と、誰かが手を振っている光景なんて見たくない。
寺田大辅は顔をぬぐい、乾いた声で言った。
「今夜、マジで命がけだったな……この世に本当に、ああいうのが……いるのか? 言ったって誰も信じねぇよ」
窓の外は濃霧と闇。口にするのもはばかられて、彼は「その言葉」を避けた。呼び寄せたくない。
比良恒一は、さっきの幽霊どもが「ご愁傷さま」みたいな顔で見送ってきたのを思い出して腹が立ち、鼻で笑っただけで相手にしなかった。
寺田大辅は黙っていられず、後部座席へ振り返る。青白い顔色なのに、どこか満足げな気配を滲ませる長髪の女がいた。
その女が、すぐにこちらを向いた。
首が――水平のまま、ぎこちなく九十度。
黒々とした目が寺田大辅を捉え、口角がゆっくり裂ける。次の瞬間、血の海みたいな口で喉元に噛みついてくる――そんな幻が脳裏を突き刺し、寺田大辅は膝が抜けて、危うく漏らしかけた。
だが女は、いつもの「にこり」を浮かべる。
「どうしました? 何か用ですか?」
寺田大辅は言葉を失った。
「……こ、咳。い、いや、なんでもないっす」
自分の情けなさが恥ずかしい。なんでこう、すぐ失禁寸前まで追い込まれるんだ。
女は気遣うように頷いた。
「そうですか。わかりました」
比良恒一が、運転席で小さく笑う。
「……ふん」
寺田大辅は思う。こんな恐ろしい女、見たことがない。何もしなくても、そこにいるだけでホラー。目を向けられただけで「食われる」と錯覚する。
この才能、反則だ。芸能界に放り込めば、ホラー界の女王なんて即決まりだろう。
とはいえ――幽霊ではなく、人間らしい。そう思うだけで恐怖は少し薄れる。代わりに、好奇心がむくむくと顔を出した。
「こんな夜中に、こんな山奥で……なんで一人で歩いてたんだ?」
長髪の女は笑みを消し、少しだけ沈んだ声になる。
「家に急いで帰りたくて。でも外がこんなに寒いとは思わなくて……凍えて、だんだん足も上がらなくなってしまいました。そこへ親切な人たちが、かわいそうだって道まで運んでくれて。だから助けを求められたんです」
そして、丁寧に頭を下げるような口調で続けた。
「乗せてくださって、ありがとうございます。そうじゃなかったら、どうしたらいいか……」
寺田大辅は、どこか古めかしい服装をちらりと見て、少しだけ気の毒になった。
「夜道は危ねぇぞ。次からは無理すんな。何かあったらどうすんだよ」
女はこくりと頷く。どこか、心底怖がっているようにも見えた。
――危うく大変なことになるところだった。雷に打たれて人間になった途端、こんなにも寒さに弱いなんて。幽霊だったころは、冷えも疲れも知らなかったのに。行きたい場所へは、ふわりと漂えばすぐだったのに。
今は違う。寒い、腹が減る、歩かなきゃいけない。脚は重い。身体はだるい。散々だ。
神様は、どうしてここまで自分に厳しいのか。悪霊を一体食べただけで、雷が何発も頭めがけて落ちてきた。魂が砕けて終わると思ったのに、目が覚めたら少女の身体になっていた。
山の中で、ぼろぼろの格好。懐には少しの金と、硬いパンが数個。身体には傷もあった。たぶん、この身体の元の持ち主は転んで死んで――そこへ自分が入り込んだのだろう。
それからというもの、いいことなんて何ひとつない。
寺田大辅の目には、女がしゅんと頭を垂れたように映った。青白い顔の大半が黒い長髪に隠れ、残るのはぼんやりした影だけ。恨みがましい雰囲気が濃すぎて、寺田大辅は思わず息を吸う。
――やっぱり、ホラー映画に出ないのが不思議だ。
比良恒一もルームミラー越しに見て、心臓がひゅっと縮んだ。だが、さっきほどのパニックはない。
「さっきの連中……あんたも、何かおかしいって気づいてたか?」
長髪の女が顔を上げる。
なぜか、比良恒一と寺田大辅は一瞬だけ、彼女の目に「羨ましさ」の色を見た気がした。
――幽霊を、羨ましがる?
いや、見間違いだ。自分たちはさっきまで彼女を幽霊だと勘違いしていたんだし。
「キィィィッ――」
突然の急ブレーキ。
二人はシートベルトをしていても、ぐっと前へ持っていかれた。後部座席の長髪の女は完全に不意を突かれ、運転席の背にぶつかってから、反動でどさりと戻った。
「いってぇ……恒一、急に止まるなら言えよ! 心の――準備が……」
寺田大辅の文句が喉で止まる。
前方で、車のライトがちかちかと明滅していた。路肩に立つ人影も、見覚えがありすぎる。
――さっき、揉めていた場所だ。
走り続けたはずなのに、また事故現場へ戻ってきてしまった。
違うのは、人が増えていること。警察と、医療スタッフ。
男二人の車主が警官に食ってかかっている。だが、どれだけ喚いても警官は反応しない。やがて車から遺体が運び出され、医師と看護師が駆け寄った。
処置、首を振る。
処置、首を振る。
処置、また首を振る。
言い争いは、呆然とした沈黙に変わる。
――俺たち……死んだのか?
比良恒一と寺田大辅は顔を見合わせた。歯がかちかち鳴り、全身に鳥肌が立つ。
比良恒一は、まだ少しふらついた様子の長髪の女を見た。声が硬い。
「……あれ、どういうことだ。わかるのか?」
長髪の女は窓の外へ目をやり、低く言った。
「死ぬのが急すぎたんです。衝撃が大きすぎて、しばらく自分が死んだことに気づけない」
そして比良恒一を見た。
「でも、今はもう気づきました」
比良恒一は言葉を失う。
女は妙に親切に付け足した。
「生まれたての幽霊は鈍いです。大した害はありません。心配しなくて大丈夫。あなたたちに仕返ししたりしません」
――言わないでくれ。余計怖い。
だが確信した。この長髪の女、やはり普通ではない。
寺田大辅は腕を抱え、縮こまる。
「恒一……今夜、なんなんだよこれ。早く行こうぜ。心臓が落ち着かねぇ」
比良恒一も走り去りたい。だが、今夜は何度引き返したかわからない。ここでまた動いたところで、何が起きる?
さっきの幽霊どもは「知ってる顔」だ。害がないとわかった以上、ここで一度落ち着いて手を考えたほうがいい。下手に進んで、別の何かに当たったら目も当てられない。
それに、長髪の女は事情を知っていそうだ。今の状況を抜ける手掛かりになるかもしれない。
あるいは――比良恒一は前方の警官たちを見る。足元に影がある。人間だ。最悪、警察に頼み込んで乗せてもらう手もある。正義の気配は、変なものを遠ざけるかもしれない。ここさえ抜けられるなら、車なんて捨ててもいい。
ただ、本音を言えば、根本から片をつけたい。じゃないと、また同じ目に遭う。
比良恒一は後部座席へ視線を投げた。
「俺は比良恒一だ。あんたは?」
長髪の女は、きちんと名乗る。
「こんにちは。神崎飛鳥です」
寺田大辅は目を丸くした。神崎飛鳥? 普通すぎるだろ、その名前。
そのころ、救急車は遺体を載せて走り出し、現場には検証を続ける警官だけが残った。幽霊たちは泣き叫んだあと、現実を受け入れるしかなくなり、遺体のほうへついていく。
去り際、彼らは少し離れた場所に停まる比良恒一たちの車に気づいた。二人の顔色は初めて会ったときより青白い。足元に影もない。背を向ければ、背中一面に傷と血。
男二人の車主は比良恒一たちへ手を振った。別れの挨拶のようでもあり、悪ふざけのようでもある。
だが、後部座席から首を傾けて覗いた「頭」を見た瞬間――
長い髪。白く霞む顔。黒い目。
にたりと笑って、こちらにも手を振る。
友好的なはずなのに、幽霊たちは揃ってぶるりと震え、逃げるように救急車へ飛び乗って去っていった。
比良恒一と寺田大辅は、車内に漂う冷気に押されるようにドアへ身を寄せた。
「……お前、なんであいつらに手ぇ振ったんだよ」
神崎飛鳥は不思議そうに、黒い目で寺田大辅を見つめる。
「いちばん基本的な礼儀ですよね? 何か問題がありますか?」
比良恒一は即答する。
「い、いや、問題ない。寺田大辅が変なだけだ。気にしないでくれ」
寺田大辅は唇を噛んだ。どこが変なんだ。変なのはこの長髪の女――いや、神崎飛鳥のほうだろ。やっぱり自分は「長髪の女」と呼びたい。こんな人間らしい名前、似合わなすぎる。
神崎飛鳥は寺田大辅の反応など気にせず、硬そうな綿入れのポケットをごそごそ探り、油紙の包みを取り出した。
寺田大辅は目を瞬かせる。
「それ、なに?」
「パンです。食べますか?」
油紙が丁寧に開かれる。中から出てきたのは、石みたいに硬い塊――しかも半分ほど齧られている。
寺田大辅は慌てて手を振った。
「い、いらねぇ! 自分で食えよ!」
比良恒一もちらりと見たが、意識は次の手に向いている。
神崎飛鳥は小さく頷いた。
「そうですか。私、ちょっとお腹が空いていて」
寺田大辅は思わず言ってしまう。
「……それ、硬くねぇか。食えるのかよ」
「食べられます。力を入れれば」
彼女は、パンを見つめて渋い顔をする寺田大辅に、にっと笑いかけた。
「歯が丈夫なんです。えへへ」
寺田大辅はごくりと唾を飲む。
比良恒一も、言葉が詰まる。
比良恒一は気を取り直した。
「神崎さん。俺たち、なんでこんな目に遭ってる? どれだけ走っても、最後は同じ場所に戻る。さっきもここに来た」
神崎飛鳥はパンにかぶりつこうとする。
「少しだけ、わかります」
だが――硬い。さっきは力を入れれば噛みちぎれたのに、今はどうやっても歯が立たない。けれど空腹は我慢できない。彼女はさらに力を込めた。
ぐっ、と。
ようやく欠けた。だが同時に、鋭い痛みと、鉄みたいな生臭い甘さが口の中に広がる。
神崎飛鳥はぱちぱちと瞬きをし、もぐもぐと口を動かしたあと――
ぽとり。
歯を一本、吐き出した。
寺田大辅は凍りつく。
事情を聞くために気を遣って待っていた比良恒一も、凍りつく。
神崎飛鳥は口の中の硬いパンをもぐもぐしながら、吐き出した歯を飲み込もうとして――二人の顔があまりにも真っ青なので、やめた。
そして、しょんぼりする。
「人間って……寒いし、お腹も空くし、歩かなきゃいけないし……歯まで弱いんですね」
