第6章
長髪の女が幽霊じゃないとしても――どう考えても、普通の人間じゃない。あるいは、人間ですらない何か……。
比良恒一には確信が持てなかったし、寺田大辅も胸の奥がざわついて仕方ない。もちろん、余計なことを訊く勇気なんてない。下手に禁忌に触れて、割に合わない目に遭うのは御免だ。
今いちばん大事なのは、無事に家へ帰ること。自分たちの手に負えない話を、わざわざ掘り返す必要はない。
人間、わざわざ死にに行くもんじゃない。
普段は度胸があるほうの比良恒一と寺田大辅ですら、珍しく身の程を知った。
それからしばらくの道中、車内はずっと静かだった。比良恒一は運転に集中し、寺田大辅は眠気で瞼が落ちそうになりながらも、怖くて眠れない。目を閉じた瞬間、どこか変な場所に着いてしまいそうで。
当然、長髪の女に気軽に話しかけるなんて論外だ。道端のガソリンスタンドを見つけると、タンクは満タンにした。
A市が近づく頃には、空はすっかり明るくなっていた。いつもなら一、二時間で着く距離なのに、今夜は半夜もかかった計算になる。
太陽が昇った瞬間、比良恒一と寺田大辅は、こらえきれずに涙をこぼした。抱き合って泣き出しそうな勢いだ。毎日見て、暑苦しいとすら思うことのある太陽が、こんなにもありがたく感じるなんて。
もちろん、後部座席の長髪の女のことも忘れていない。
彼女は首を傾け、窓の外を眺めていた。珍しく、その白い顔に「驚き」の色が浮かんでいるように見える。まるで、とんでもないものでも見つけたみたいに。
けれど窓の外にあるのは、車の流れと高層ビルだけ。特別なものは何もない。
光があること、そして人が増えたこと――見慣れた人間の世界が、二人に途方もない安心感を与えた。夜のような極限の緊張はようやくほどけ、そっと息をつく。額の冷や汗を拭いながら、命拾いしたという実感がじわじわ湧いてきた。
そのとき。
背後から、長髪の女の声が落ちてきた。冷えきった朝の空気の中、耳の奥をひやりと撫でるような声。
「幕山がどこにあるか、思い出しましたか?」
比良恒一と寺田大辅の背筋が跳ねた。いつの間にか彼女は振り返っていて、黒々とした目で比良恒一を見つめている。
比良恒一は言葉を失う。
――幕山? そんなもの、覚えてるわけがない。
「……すみません。まだ思い出せなくて。俺の勘違いかもしれません」
「本当ですか? 勘違い?」
比良恒一は返事ができない。寺田大辅も、ひゅっと息を呑んだ。
長髪の女の表情が沈む。黒い眼差しが重くなり、長い黒髪がすとんと垂れた途端、車内の空気まで数度冷えた気がした。見ているだけで歯が鳴りそうだ。
比良恒一は、怒らせたら終わりだと直感して、慌てて言い足した。
「でも、俺、知り合いが多いんです。みんな色々知ってる連中で……帰ったら聞いてみます。ついでに幕山のことも探してみます。何かわかったら、連絡します。それで、どうですか?」
寺田大辅も必死に頷く。
「そうそう! 神崎様、焦らないでください! 俺たち、人数いるんで! 絶対、幕山がどこか見つけます!」
神崎飛鳥は少しだけ、ほっとしたように見えた。寺田大辅を見て、申し訳なさそうに首を傾げる。
「……ご迷惑じゃありませんか?」
寺田大辅はぶんぶんと手を振った。
「迷惑なんて! 昨日の夜、俺ら助けてもらったじゃないですか。こっちが当然です、当然!」
神崎飛鳥は本当に感動したらしく、口元を引いて、かすかな笑みを作った。
「ありがとうございます……では、お手数をおかけします。よろしくお願いします」
「い、いえ……どういたしまして」
比良恒一と寺田大辅は、ようやく息を吐いた。二人は目を合わせ、何も言わずに視線を逸らす。
比良恒一はアクセルを踏み込み、できる限りの速度で市内へ入った――そして、人の多い場所で長髪の女を降ろした。
早く縁を切りたいのは本音だが、二人はそこまで薄情でもない。比良恒一と寺田大辅は財布と車内をひっくり返し、手持ちの小銭と札をかき集め、全部まとめて神崎飛鳥に押しつけた。報酬だと言い張って。
数万円ほど。今どきスマホ決済が当たり前で、現金で数万円を用意できただけでも奇跡に近い。本当は振り込みにしたかったが、彼女はスマホを持っていなかった。
もちろん、内心は別の意味もある。機嫌を取っておきたい。こちらの「善意」を覚えていて、後から面倒を持ち込まないでほしい。
――たぶん、もう二度と会わないだろうけれど。
神崎飛鳥は札をポケットにねじ込み、感動した様子で手を振った。手の振り方が妙に均一で、妙にリズムがいい。口元を裂くように笑いながら。
その瞬間、SUVは何かに追い立てられたみたいに、ブオォンと音を立てて走り去った。
バックミラーから長髪の女の姿が消えたところで、比良恒一の張り詰めた神経はようやくほどけた。疲れ切って眉間を揉む。
一晩で起きた出来事は、彼の常識を根こそぎひっくり返した。もう二度と「幽霊なんていない」とは言えない。
寺田大辅も同じだ。シートにぐにゃりと沈み、骨がばらばらになったみたいに動けない。相当、肝を潰したのだろう。
それでもどこか、夢を見ていたような気分が抜けなかった。
――だが。
家に帰り、ニュースで「某交差点で多重事故、車三台が衝突し六人死亡、うち七歳の子ども一人」と知った瞬間、全身に鳥肌が立った。
事故が起きたのは午前一時頃。通りがかったトラック運転手が通報し、警察と救急が駆けつけた時には、全員すでに冷たくなっていたという。
比良恒一は知り合いを通じて、死亡者の写真まで手に入れた。凍りついた遺体は血で汚れ、顔も判別しづらい。それでも――それでも、彼は一目でわかった。
口論していた運転手。止めに入った女。泣きわめいていた母子。道路脇に静かにしゃがんでいた女……。
見覚えがあるのに、現実味がない顔。傷の位置まで、記憶と重なっていく。
比良恒一は声を失ったまま、袖をまくった。左腕に、黒い指の跡が五つ。
あのとき、仲裁に引っ張られた場所だ。痛かったのは覚えている。緊張で忘れていただけで――跡が残っていた。
そのとき、けたたましい着信音が鳴り、比良恒一は我に返った。画面には寺田大辅の名前。
寺田大辅も「夢だ」「幻覚だ」と口では言いながら、帰宅後こっそり昨夜の道路を検索していた。死者六人の事故なら、社会面に出ないはずがない。調べたら、本当に出てきた。
写真まで見て、完全に心が折れた。
昨夜の出来事は夢じゃない。幻覚でもない。
――俺たちは、本当に幽霊を見た。
電話口で寺田大辅が、興奮してまくし立てる。
「恒一、恒一! この世に幽霊って、いるんだな! 本当にいる! 昨日の、あの連中……幽霊だったんだ! しかも思ったほど怖くないっていうか、俺らに何もしてこなかったし……むしろ神崎様のほうが怖かった! なあ、神崎様って結局、何者なんだよ?」
比良恒一は低い声で言った。
「何者でもいい。とにかく、普通じゃない」
理由はうまく言えない。ただ、神崎飛鳥は陰気で、笑うと余計に怖い。何もしていないし、礼儀も妙にきちんとしているのに――気味が悪いのだ。
寺田大辅はさらに畳みかける。
「だよな……神崎様が『邪気がついてる』って言ったの、絶対本当だろ。恒一、思い出せよ。俺ら、何か変なもん触ったか? 原因を潰さないと、次はどう死ぬかもわかんねぇぞ」
比良恒一は逆に問う。
「お前、誰かに恨まれるようなことした覚えは? うっかりなら今後気をつければいい。でも、誰かがわざとやってるなら……防ぎようがない」
寺田大辅は即答した。
「俺が誰に恨まれるって? 恨まれる相手なら、恨まれるだけ恨まれてるだろ」
「……」
強いな、こいつ。
……
人間って、難しい。
神崎飛鳥は改めて痛感していた。人として生きるのが、どれほど大変か。
金が大事なのは知っている。自分の持ち金はせいぜい数千。恒一にもらった数万円を足しても、余裕なんて一銭もない。
それなのに、何日も道を訊いて回っても、幕山の場所を知っている人は一人もいなかった。金だけがじりじり減っていく。先は見えない。それでも生活は続く。
だから、最初の仕事を見つけた。ラーメン屋だ。
初日は繁盛していた。二日目、客足が目に見えて落ちた。三日目、彼女は最初の職を失った。
理由はわからない。気づいたら解雇されていた。笑顔だって作ったし、手も抜かなかったのに。
――人間の仕事って、要求が高すぎるのかもしれない。
初めての失業に、神崎飛鳥は少しだけしみじみした。とはいえ給料は4,000もらえた。数回は食べられる。
二つ目の仕事は、チラシ配り。
他の人は一日で何百枚も配るのに、彼女は数枚が限界だった。退勤時、班長は1,000を渡し、良心的な助言をした。
「……別の仕事にしたほうがいい。たぶん、君には向いてない」
神崎飛鳥は真顔で訊く。
「どうしてですか? 私、うまくできていませんか?」
班長は言葉に詰まった。正直に言えば、彼女は誰より真面目だった。姿勢も正しい。笑顔も教科書通り。
ただ――空気がだめだ。
笑うだけで、通行人が三歩どころか三メートル避けていく。邪気が強すぎる。だがそんなことを言ったら、何が起きるかわからない。
班長は怯えながら、苦し紛れに言った。
「……いや、仕事は完璧。えっと……前歯、かな」
前歯?
神崎飛鳥は本気で衝撃を受けた。
学歴がない、資格がない、経験がない――それで仕事が見つからないのは理解できる。だが、前歯がないだけで仕事がないのか。
神崎飛鳥は真剣に相談した。
「前歯がない場合、どんな仕事が向いていますか?」
班長はなんとも言えない顔をした。陰気で怖いのに、働く意欲だけはやたらとある少女。
「……今は、どの仕事も見た目を気にするから。前歯がないと、ちょっと印象が悪い。お客さんも怖がるし、採用も難しい。……先に病院で、前歯入れたら?」
神崎飛鳥は重々しく頷いた。
前歯一本で失業するなんて、思いもしなかった。風が漏れて食べづらい程度の話だと思っていたのに。失業に関わるなら、真面目に対処しなければならない。
「わかりました。行ってみます」
班長は額の汗を拭った。神崎飛鳥が立ち去るのを見届けると、自分も逃げるようにその場を離れた。
