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写真の中の龍の紋章を、私は釘付けになって見つめた。
脳内で、ぶん――と鈍い音が弾ける。大槌で殴られたみたいに。
写真が指の間からするりと抜け、ふわりと厚い絨毯へ落ちた。軽いはずなのに、千斤の重みで胸を押し潰される。息ができない。
どうして、こんな偶然があるの。
昨夜、あの男の胸元に触れた紋章の感触。硬く、冷たく、金属のざらつきまで含んだ輪郭。
いま写真で見ている図柄と、寸分違わず重なっていく。
ヴィクター・ファミリー。マフィア。
その二つの単語が呪いみたいに頭の中をぐるぐる回り、足元からぞわりと寒気が駆け上がった。指先まで冷えていく。
――私、マフィアの人間と……一夜を?
葛城研二への腹いせに、バーで手当たり次第に選んだ「獲物」。
私を、これまでにない狂気と失速へ突き落とした男が。
私が生涯いちばん憎み、いちばん怖れてきた「連中」の一員だなんて。
咄嗟に口を押さえる。胃がぐらりと裏返り、吐き気が喉元までせり上がった。
血溜まりに倒れた祖母の姿が、鮮烈に蘇る。光を失った目。最期まで私の手を強く握りしめ、繰り返し言った――あの人たちには、近づくな、と。
なのに私は、何をした?
自分から近づいて、しかも――。
違う。そんなはずがない。
私は無理やり呼吸を整えようとした。深く吸って、吐く。けれど胸は乱れたまま、大きく上下する。
松崎莉緒。あなたは弁護士。何事も証拠よ。
屈んで写真を拾い上げる。力が入りすぎて指先が白くなる。
紋章なんて世の中にいくらでもある。似た意匠のトーテムだって珍しくない。
それに、高級な男性エスコートが「危険でミステリアス」な売りを作るために、マフィア・ファミリーの紋章を真似て飾りにする――あり得ない話じゃない。
禁忌の匂い。命知らずの背徳。
そういう刺激に惹かれる女は確かにいる。
そう。きっと、それだけ。
あの男は、頭のてっぺんから爪先まで、丁寧に包装された「商品」の匂いがした。
氷みたいな青い瞳。高そうなスーツ。腰の銃だって……値を吊り上げるための小道具だったのかもしれない。
私は何度もその理屈を繰り返し、自分に言い聞かせた。昨夜の愚行と、目の前の現実を切り離すために。
それでも。
あの氷河みたいに冷えた眼差し。生まれつきとしか思えない、反論を許さない圧。
どう考えても、ただの男性エスコートが持つ気配じゃない。
すべてを掌で転がすような覇気は、作って出せるものじゃない。
私は落ち着かないまま仕事を切り上げ、車を飛ばしてマンションへ戻った。
かつて葛城研二と一緒に整えた部屋は、いまや冷たい空洞だ。
ヒールを脱ぎ捨て、ソファに身体を投げ出す。瞼を重く閉じた。
身体の痛みと、頭の中の混乱が絡まり合い、こめかみが割れそうだった。
浴室へ行き、シャワーをひねる。温い水が肌を叩くのに任せ、彼の匂いを洗い流したかった。皮膚に残る艶めいた痕も、脳裏に焼き付いた制御不能の記憶も、全部。
けれど筋肉の一つ一つが、昨夜の狂乱を告げてくる。支配され、弄ばれた感触が、まるで一秒前みたいに鮮明で――。
そのとき、洗面台に置いたスマホが唐突に鳴った。
手を拭き、画面を見る。知らない番号。仕事の連絡だと思い、通話を取る。声だけはいつも通り冷やす。
「はい、松崎莉緒です」
向こうは二秒ほど沈黙し、低く、どこか気怠い磁力を帯びた男の声が落ちてきた。
「俺だ」
たった一言で、心臓が一拍抜けた。血が一瞬で冷える。
――あの男。
灰になっても聞き分ける声。
握った手に力が入り、関節が白く浮いた。理性の糸が、ぷつりと切れる。
どうして、私の番号を知っているの。
「……用件は?」
平静を装ったつもりなのに、声の底がわずかに震えるのが自分で分かった。
電話口で、男が小さく笑った気配がした。電流越しでも、愉しんでいるのが伝わる。
「松崎弁護士の声、少し緊張してるな」
「私の声の講評がしたいだけなら、話すことはないわ」
冷たく言い捨て、切ろうとした。
「君のピアスが、俺のところに落ちてる」
その一言で、指が止まった。
反射的に耳たぶへ触れる。左耳が空だ。
青いサファイアのスタッド。祖母の形見。私がいちばん大切にしているもの。
「ピアスくらい……大した値段じゃない。捨てて」
強がって言った。けれど胸の奥が沈んでいく。失くせるはずがない。
「そうか?」
男の声に、薄い笑みが混じる。
「そこに嵌ってる『碧海の心』は、松崎弁護士にとって相当な意味があるはずだ」
石の名まで知っている。
その瞬間、私の防壁が崩れた。自分を納得させるために積み上げた理屈が、一気に色褪せる。
男性エスコートに、そんな目利きも知識もあるわけがない。
恐怖と無力感が波になって押し寄せ、喉が詰まる。
「……あなた、何が目的なの」
自分でも気づかない怯えが声に滲んだ。
「目的なんてない」
一拍置いて、言葉の温度がさらに下がる。拒否を許さない響き。
「物を持ち主に戻すだけだ。明日、正午12時。迎えを君の法律事務所に向かわせる」
相談じゃない。通告。
私の返事を待つことなく、通話は切れた。
ツー……という虚しい音を聞きながら、私は冷たい壁にもたれ、力なくそのまま床へ座り込んだ。
髪先から滴る水が、目尻から落ちた涙と混ざり合う。どれが水滴で、どれが涙なのか分からない。
侥倖も自己暗示も、この一本の電話で粉々に砕け散った。
昨夜、私と一晩中狂ったように絡み合った男。氷青の瞳を持つ男。
その名は、六条修介。
そして彼は――男性エスコートなんかじゃない。
私は、とてつもない厄介ごとに手を出した。
最も関わってはいけない、ヴィクター・ファミリーからの厄介ごとに。
